日本国憲法とマルクス・ガブリエル

日本国憲法十三条

「憲法」連続市民学習会 
第3回 7月28日(土曜)  憲法13条と新しい人権  講師:犬飼貴文弁護士

十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

 憲法の条文はシンプルで、見ようによっては曖昧でスカスカしている。この第13条で言われる個人の「幸福追求」とは何を指すのか。当初は、第14条以降に列挙される人権(例えば信教の自由、職業選択の自由など)の総称にすぎないと考えられていた。しかし、憲法施行から長い時間が経過した。昭和30年代以降、高度経済成長下での社会の変化に連れ、かつては存在しなかったようなさまざまな問題が国民生活のなかで起こるようになる。公害や環境、マスコミ報道とプライバシー、デジタル情報化。個人と組織、社会との関わりかたも変わった。
 本講では幾つかの実例が紹介され、最高裁判決を含めた司法判断のなかで、さまざまな争点に対してこの第13条を根拠として是非の判断が示されてきたことを学んだ。もちろん多くの憲法学者や法律実務家の研究・実践もそこに加わっただろう。憲法の条文はいったん書かれて制定されればそのまま冷凍保存されていたわけではなく、時代の移り変わりとともに、事実に即して再解釈され肉付けされて厚みを増していったものである。
 今後も、ITや生命科学の発達、社会インフラの発展に伴って、これまで想定されていなかった角度から「人権(の侵害)」がクローズアップされる可能性がある。しかし、13条には、それらの「新しい人権」を取り扱っていくだけの"幅"を有している。「新しい人権」に対応する必要があるからといって、短絡的に「改憲が必要」とはならない。まず第13条でそれはカヴァーできないのか? を検討する必要がある、というのが本日の結論であった。
 これから憲法を巡るいろいろな動きが起こ(され)ることが予想されるけれども、まず現在の憲法が果たしてきた役割、残してきた成果、そこに積み重ねられた多くの思索を再確認し、そこを出発点にするという着実な考え方が主流になってほしいと強く感じた。


マルクス・ガブリエル 日本を行く

 ところで、きょうの講座の前に、弁護士会長さんが司法試験の予備校に通っておられた頃の思い出話をちょこっとされた。そこの講師の弁護士さんが憲法を説明するのに三角形を描いて、頂点に「個人の尊厳」と書かれた、という、確かそんな話だったと思う。
 学習会から帰宅して、遅い昼ご飯を食べながら、先日録画しておいたBS1スペシャル「欲望の時代の哲学 ~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」*1
www4.nhk.or.jp
を観ていたら、
ちょうど同じようなことをガブリエルさんがしゃべっているところが映っていた。

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こういう偶然の一致みたいなのが大好きなので、これだけが書きたくて、きょうの日記となった。


 ついでにこの番組、新幹線で新大阪駅に着いたガブリエル氏が、つぎの画面ではなぜか阪急三国?駅前からタクシーに乗ろうとしている謎の場面があったのも、妙に心に残るのであった。

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*1:未だ半分しか観ていない。7月30日(月) 午後9時00分  再放送があるみたいです。

全部が華麗に嘘くさい

雪の階 (単行本)

雪の階 (単行本)

NHK Eテレの『100分de名著』という番組がある。今年の3月には原武史松本清張の主要作を紹介するという内容だったので、清張作品にはほとんど興味の無かった私もテキストも買って視聴してみた。取り上げられていたのは『点と線』『砂の器』『昭和史発掘』『神々の乱心』の4作品だった。その後、この『雪の階』を読み始めてみたら、『春の雪』路線かしらと思わせつつ、先述の4作品がぜんぶブッ刺してあるみたいな、とんでもない小説だった。
私はこの順で読んだので、まるで原武史のテキストに沿って小説が書いてあるような錯覚をしたが、考えてみたら雑誌に連載されていたのは昨年秋までなのだから、むしろこの小説にインスパイアされて原武史の『100分de名著』が構想された可能性のほうがある。

原武史がやっぱりこの小説の書評を書いているらしいんだけど、残念ながら(笑)有料記事。図書館で探してみようか。
www.asahi.com

読み終えられないうちに参加

人文研アカデミー2018 連続セミナー「〈68年5月〉と私たち」ー68年5月と現在、政治と思想を往還する

 —佐藤嘉幸(筑波大学准教授)・廣瀬純龍谷大学経営学部教授)「ドゥルーズ=ガタリと68年5月──佐藤・廣瀬著『三つの革命』をめぐって」

  できれば読んでから出席したくてがんばったものの、第二部にさしかかったところで当日に…しかし読み続ける(そして何としても「結論」にたどり着く、という)気力を得ることができた。ここから後のほうが読みやすくなりそうだし。

 佐藤先生は講義っていう感じ、それに対して廣瀬先生はやっぱり独演会スタイル(?)でワクワクというかニヤニヤしてしまった。

 この「現在」の向こうに、はたして希望があるのかというともうどうかわからないけれど、我々は(私のような者ですら)読み続けるしかないわね。

夏の小宇宙

映画 『モリのいる場所』を観てきた。

mori-movie.com


 ほとんど予備知識無く、山崎努主演という点にだけ惹かれて出かけた。だいたい日本の映画やドラマは苦手(芝居がクサくて学芸会を見せられているみたいで、恥ずかしさに居たたまれなくなる)でほとんど観ないのだが、この作品は脇役に至るまで演技がなかなか自然で厭味が少なかった。とくにカメラマン&助手、この辺りはきっと芝居がわざとらしいに違いない…と出てきた瞬間に思ったのだがそんなことはなくてよかった。
 冒頭の、庭をじーっとカメラが移動していくあいだに、むかし観た(数少ない日本映画のひとつ。内容はほとんど憶えていない)『ロビンソンの庭』を思い出していた。モリの庭はどのくらいの規模なのか、周りはいったいどうなっているのか、なかなかわからない仕掛けになっているが、最後までみると、全く似ていないと思われた『ロビンソンの庭』の庭、にやっぱり案外似ていたんじゃないかという気がしてくる。

 “仙人とも呼ばれたという老画家”にしては顔肌に艶がありすぎ眼光が強すぎるぜ山崎努…と思ったが、実際の熊谷守一の顔写真を見たらなかなかの男前で、91歳にしてぜんぜん枯れた感じがしないので、あれでちょうど良かったのかもしれない。
 山崎モリがガンダルフにそっくりなのは、監督自身が『ロード・オブ・ザ・リング』を狙ったと語っているので意図的なものなのだろうが、それ以外にも『ホビット』に出てくるドワーフの宴会を思わせる場面もあるし、なんといってもあの俳優が最後にはエルフとして…さすがに驚きました。



www.jprime.jp

ひさしぶりに来た

人文研アカデミー2018 連続セミナー「〈68年5月〉と私たち」ー68年5月と現在、政治と思想を往還する

 5回シリーズなれど、平日なので聴きたいやつ2回にしぼって参加の予定。この日はこちらのお二方:

上尾真道(京大人文研研究員)「68年5月と精神医療制度改革のうねり」
立木康介(京大人文研准教授)「精神分析の68年5月──「ラカン派」の内と外」

 この日をはさんで、少しだけ立木先生の『露出せよ、と現代文明は言う』を読み返した。これはとても親しみやすい本だったのでまた読めるかも → どんどん寝床の横に積み上がる本が増えていく


 質疑応答の時間に、今回のセミナー内容よりも自説を延々述べたい感じのおじいさんが登場(ずいぶん昔にも聞いた気がするのでたぶん常連さん)したのだが、先生たちのかわしテクニックが洗練を極めていて感心してしまった。というか、私が思いこんでいるよりも、意外に的外れではない発言だったのかもしれない