音もなく衰え滅びゆく追憶

北杜夫『輝ける碧き空の下で 第二部』(新潮社) 読了。


 暗〜い辛〜い(そればっかりではないけれど)小説を、やっと越年せずに読み終わることができました(汗)。


 第一部と同じく、ブラジル移民たちの苦難は続く。アマゾンの奥地で孤独に働き続け、長年かかって貯めた金貨を、街へ出ようと決めた矢先に奪われてしまう者。実らぬ作物を来る年も来る年も懸命に工夫し続ける年月。奴隷のような境遇からやっと抜け出した頃に太平洋戦争が始まり、敵国民として不当な拘束や虐待を受ける人々。高等拓殖学校生として志高く渡航してきた青年たちも、思うに任せない入植生活にしだいに屈託していくようすも描かれている。

 なかでも、やや内省的で自然を愛する木内青年が、アマゾンの川面に流れる月の光と夕空の美しさに感嘆しつつも、

アマゾンの自然はあまりに広大すぎる。(...)人間がいかにも大自然を開拓しているように見えても、長い歳月のうちにはいずれはまた大自然の中に吸収されて消滅してゆくんじゃないか、(...)南北戦争の後にアマゾンに来たアメリカ人が消えてしまったように、もう後輩も来ない高拓生はいずれは齢をとり、希薄になり、あとには白いジュートの繊維だけが残るだろう

とつぶやくところは、広大なブラジルに骨を埋めることになる日本人移民たちの寂寥感を繊細な情景描写に込めた、北杜夫作品らしい感じをうける場面である。
 この後、木内はふとしたことから関係を持った現地民の娘と結婚するはめになる。やがて戦争が始まり、日本人がちりぢりに去っていった結果、妻の親族たちに囲まれてしだいに現地民ふうの暮らしに取り込まれていく彼は、虚しさと倦怠の中で、自分は《すでに大自然の中に埋没した一片のかけら》《もう大アマゾンの感情もない動物の一種に変じつつあるのではないか》と感じるに至る。この人物の感慨が、私には一番強い印象を残した。


 北杜夫らしいといえば、第一回ブラジル移民船笠戸丸でやってきた、大言壮語癖というか誇大妄想ぎみの山口佐吉の人物像がその最たるものだろう。一番危なっかしいと思われたこの人物もしかし、最後は老いと病に倒れるものの、家族に見捨てられるわけでもなく、それほど悲惨な末路とも言えない。それに引きかえ、佐吉とは対照的に勤勉で慎重なタイプだった佐久間四郎たちの一家は、日本の戦勝を信じ込み、「帰国の船に乗せてやる」と易々と騙されて土地をまき上げられてしまう(これは実際に多くの人が騙された話だそうだ)。
 「勝組・負組(=信念派・認識派とも呼ばれた)」騒動は、殺人事件まで引き起こす悲惨な事態だった。冷静に事実を知ろうとしていた者も、声高な日本戦勝論にしだいに説き伏せられそうになっていくようす、また勝組が怪文書・ニセ詔勅まで作って自説をひろめたことも作中に出てくる。終戦後10年以上経っても未だ「日本が戦争に勝った」と信じていた人もいたなど、今では考えられないような話であるが、著者もあとがきで述べているとおり、祖国と隔絶され情報がほとんど届かない環境にあった移民の心理は、当事者以外には想像し難い。作中の木内青年のように、茫漠としたブラジル国土に吸い込まれていくような、日本人としての自己喪失感を誰もが抱いていたとすればなおさらだろう。
 結末で、財産のほとんどを失いおそらく将来の帰国も叶わなかったであろう、四郎たちの頭上に蒼天が眩しく輝く場面は、移民たちの苦難や悲しみ(ときには成功さえも)が、常にこの国の大自然の懐中にあって、あまりにちっぽけな人間サイズの出来事に過ぎなかったことを物語っている。