過ぎた日の楽の音

小川洋子『やさしい訴え』(文春文庫) 読了。

 はじめてチェンバロ(その時おぼえた名前はハープシコードという楽器を目にしたのは、小学生の頃、NHKの音楽番組でだった。内部に美しい絵の描かれた、二段鍵盤の楽器が画面に映っていた。演奏されていた曲名はクープラン『花ざかりの果樹園』だった。生まれる前に見たきり忘れていたあの世界への入り口が、そこに開けているのを見つけた、そんなふうに感じたことも憶えている。だから私にとっては、チェンバロの音色は最初からずっと、どこか遠い別の世界から聞こえてくる、過ぎた日の楽の音なのだ。ちょうど、小説の中で語り手がこう感じるように。

いつでもチェンバロの音は、手の届かない遠いところから聞こえてくる。さして大きくもない目の前の箱が鳴っているとは、とても信じられない。本当の音の源泉は宙の果てにあって、薫さんはただ鍵盤に隠された暗号を解きほぐしているだけではないかという気がする。

 この小説の語り手、「わたし」=瑠璃子は、愛人を作り暴力をふるう夫から逃れて、子供の頃に親しんだ山の別荘へやってくる。そこで、訪れる人もない林の中に工房を構えてチェンバロ製作に没頭する新田氏と、そのアシスタントを勤める若い女性、薫さんの2人に出会う。心身共に寄る辺なさにさいなまれる「わたし」は次第に新田氏に惹かれていくのだが、氏と薫さんがどうしても他者の入り込めない特別な緊密さで結ばれていることに気づく・・・

 以前私は、小川洋子の小説から有元利夫の絵を思い浮かべると書いたことがあったけれど、この小説もまさにそうだった。あの奇妙なプロポーションを持つ静謐な人物たち、穏やかな悲しみを湛えたチェンバロの音色。また、(私は未だ2作しか読んでいないのだけど)小川洋子の小説は、何かしら病気や怪我、障害に関わるものが多いようだ。この作品もやはりそう。

  3人が3人ともそれぞれに奇妙な形の穴が身体にあいたみたいに、深いところに傷を負っているので、ふつうの人間関係の中でなら許容され得ないような振る舞い(=薫さんと共に演奏旅行へ出かけるはずの新田氏を、「わたし」が強引に引き留めて関係を求め、さらにその事実を薫さんにつきつけて挑発するような事を言う)をしても、その異様な傾きぐあいを互いが受け止めてしまい(なぜならもともと全員が変なふうに傾ぎながら立っているので)、不思議に3人とも倒れないまま、相変わらず輪になって回り続ける。林を通り過ぎていく季節の巡りの中で、その奇妙なロンドを見つめ続けてこの小説は進行する。

 「わたし」は新田氏を求め、いちどは彼とひとつになれた感覚に酔うのだが、結局は新田氏と薫さんとの、すべてを超えた運命的な合一にとうてい及ばないことを思い知らされる。筋書きの、そとがわだけを辿れば、椅子取りゲームで押し出された女が、あわてて既に他の人が座っている椅子へ無理やりお尻を乗せようとしているような話なのだ。しかし、現実離れしすぎず、それでいてあろうはずもない、林に取りまかれた不思議な世界が、この話を下世話でなく巧く成立させてしまっている。

 カリグラファーである「わたし」は注文を受けて特製本を制作している。今は年老いた元霊媒師のイギリス人女性の自叙伝なのだが、これまたあり得ないような波瀾万丈の人生。「わたし」自身の外側(現実)の世界の、一見おだやかな毎日と対照的に。それを「わたし」は毎日、少しずつ手書き文字として書き写しながら辿っていく。じつはその注文は「わたし」の心が生み出したもので、ほんとうはそんな自叙伝など存在しなかった・・・というオチを思わず想像した。この予測は半ば当たって(?)おり、小説の最後近く、特製本が「私」の手を離れてしばらくののち、当の老婦人はあっけなくこの世を去ってしまう。「わたし」が夏から秋をかけて手を動かして作り上げた世界が消滅するように。そして、カリグラフィは「わたし」にとって生活の資を獲得するための、まったく現実的な業(わざ)、道具として手の中に帰ってくる。「わたし」は、また新しい現実へと押し出されるようにして歩み出す。

 おおらかな巨女として描かれるペンションの女主人の、異様な包容力と理解はどこに由来するものなのか、何も語られていないのだが、じつはそこにも凄い物語が隠されているのかもしれない。

 【余談】三角形でピンと上を向いた耳を持つ「焦茶色のパグ」という犬種が果たして存在するのだろうか?どうも思い描けなくて、読んでいて落ち着かなかった。