明日は喰われる身かも

 山本譲司累犯障害者 獄の中の不条理』(新潮社) 読了。


 新しい年の初めにふさわしく暗くて残酷な現実を学んでみました。


 秘書給与詐取の罪で服役した元衆議院議員の著者・山本譲司氏は、刑務所で心身障害者の介助にたずさわり、その経験をもとに『獄窓記』という本も書いた。
 その山本氏が、障害者による犯罪問題について発言しているのを見聞きしたのは、たぶん『たかじんのそこまで言って委員会』にゲスト出演した時だと思う。ただしテレビ番組の方は観てなくて、誰かがトーク内容を書き起こしてネットに掲載(ありがたいことである〜)しておられるのをたまたま読んだのだったはず。そこで初めて、あの「レッサーパンダ帽の男」が実は知的障害を伴う自閉症者であり、家族も障害者であることを含め悲惨な家庭環境にあったという経緯を知った。

 内閣府が発行している『障害者白書』の平成18年度版によれば、「現在、日本全国の障害者数は、約655万9000人」となっている。その内訳は(略)知的障害者が約45万9000人だ。しかし、この知的障害者の総数は、非常に疑わしい。人類における知的障害者出生率は、全体の2%から3%といわれている。だが45万9000人だと、我が国総人口の0.36%にしかならない。欧米各国では、それぞれの国の知的障害者の数は、国民全体の2%から2.5%と報告されているのだ。「日本人には知的障害者が生まれにくい」という医学的データは、どこにもない。要するに、45万9000人というのは、障害者手帳支持者の数なのである。現在、なんとか福祉行政とつながっている人たちの数に過ぎない。(本書p.222 原文は漢数字)

 障害者の存在はいろんな意味で見えなくされている。ひとつには上に引用したように、福祉制度が拾いきれない(あるいは拾おうとしない)、公によって認定されていない障害者という存在。それから私にとって驚きだったのが、本書の中で幾つか紹介されている、「レッサーパンダ帽の男」に代表されるような「障害者が起こした犯罪は報道されにくい」という問題である。
 容疑者が障害者だと判明したとたんに、マスコミがぱったりと報道を控えるようになる。「障害者は犯罪を起こしがち」という「差別」のタブーに触れることを忌避するからである。あるいは、“障害を克服して前向きに努力する障害者”というマスコミお気に入りの「物語」に反するから。


 しかし容疑者だけではない。強盗容疑で逮捕された無実の人物が、誘導的な取り調べにより自白させられたが、たまたま裁判中に別件で逮捕された他の人物が自供して真犯人と判明し、最終的には無罪となったという事件。ぬれぎぬを着せられた最初の容疑者=冤罪の被害者は知的障害者だったという事実は、地元新聞でしか報道されなかったという。
 高圧的な取り調べで身に覚えのない犯行をとうとう自白してしまった、というのはときどき聞く話であるが、そういう体験をしたことのない私などはどうしても「なぜ、やってもいないことを自白してしまうのだろう」といぶかしく思う。もちろん、しっかりした意志と健常な判断力を備えた人物であっても、特殊な環境下で長時間心身に圧力をかけられた結果、悪魔に魅入られたように(?)自白に及ぶというケースもあると聞くし、人間心理というのはたぶんそういうものなのだろう。しかし、本書で取り上げられた「宇都宮・誤認逮捕事件」の内容を読むと、ひょっとしたら“やってもいないのに自白”パターンのかなりの部分が、このようなハンディを持った人によって占められているのではないか(報道では私たちにそうと知らされないだけで)・・・と疑いたくなる。
 宇都宮の事件では偶然真犯人が判明したから冤罪を晴らすことが出来たが、そうでなければ被告本人には無実を主張し通す力は無かっただろうし、警察は(まさか、知的障害のある人に意図的に罪を着せるというつもりまではなかったと思いたいけど)むしろ「自白してくれる者がいてもっけの幸い、とにかく事件が解決するんだから!」というスタンスのようである。そうやって真相が闇に葬られたまま、他人の罪を着せられている人はきっと少なくないという気がする。著者は刑務所で、これほど多くの障害者が服役している事実に驚愕したというが、果たしてそのうち何人に、本当に服役するだけの理由があったのか?


 また、冤罪ではないにしても、「反省してます、もうしません」と言えさえしたら起訴されずに済むようなごく軽微な犯罪でも、そういう“賢い”言動ができないがために実刑となってしまう。いったん刑務所に入ると、出所しても福祉施設では前科のある障害者はほとんど受け入れてもらえず、かといって出所者を対象とした更生施設は、主に若くて健康な元受刑者を社会復帰させることしか念頭に置いていないため、けっきょくどちらからもはじき出された形になって、刑務所以外に戻る場所もない状態に陥ってしまうという。そうやってまるで吹き寄せられるようにして、軽い罪を犯しては刑務所に何度も舞い戻ってくる障害者たちにとっては、外の社会よりもむしろ刑務所の中こそが最善かつ最後の安住の地になるという皮肉で過酷な現実がある。


 著者は福祉関係者から「なぜ障害者が起こした犯罪のことをかき立てるのか。障害者問題を扱うなら、まずは被害者になる障害者を取り上げるべきでは」と批判されたそうである*1。しかし上述のような現状をみると、障害者が罪を犯し服役せざるを得なくなること自体に、「被害」の側面もあると思える。事実、宇都宮の元被告は、障害者ばかり何人も養子縁組して一カ所に住まわせ、障害者年金を巻き上げていたヤクザの養子になっていた。このヤクザは、障害者たちに廃品回収をさせており、元被告は間違えて他人の所有物を回収してしまったせいで何度も「窃盗」容疑で逮捕されたことがある。まさに「被害」と「加害(犯罪)」がないまぜになった状態だといえる。
 同様に、障害者が食い物にされているケースとして、本書では知的障害のある女性ばかりを売春などの性産業に誘い込むグループや、ろうあ者を狙い撃ちして金品を脅し取る「ろうあ者だけで組織された暴力団」などの存在が明らかにされている。どれもおぞましくて読むだけで気分が悪くなるような話。人が人を喰らってこの世が回っていることはもちろんいつだって考えないわけではないのだが、いざ具体的に「こんな仕組みでこういう人が喰われてますヨ」と解き明かされる衝撃は、ちょっと『ダーウィンの悪夢』を観たときの感じに似ていた。


 最後には救いもあって、著者らの働きかけにより、「管理」よりも「処遇」「矯正」に重点をおいた「受刑者処遇法」が2005年に成立したこと。また法務省厚生労働省・弁護士などが集まって勉強会を組織し、触法障害者問題を考えていく気運が生まれたこと。これらは山本氏という一度は国政にたずさわり、社会を良くしたいという志を持った人物が刑務所に入るという希有な体験をしたからこそ起きたできごとである。知的障害者が起こした刑事事件の弁護を専門にしている副島洋明弁護士も「山本さん、よくぞ服役してくれました。」と言ったそうなので、やはりこれまで刑務所内の障害者の実状というのは本当に語られず誰にも知られぬままだったのだろう。山本氏が取り出してみせた問題は大きく、その指摘は貴重なものだと思う。


 ちなみに、知的障害者とはまた違った意味で、一般社会とのコミュニケーションに困難を抱える「ろうあ者」の独特な文化と社会に触れた章も大変興味深い。犯罪・服役・処遇といった本書のテーマとはまた別の話だし長くなるのでもう書きませんけど、なかなか衝撃的なもの。以前アメリカのドキュメンタリーか何かで、自分の子供を手話で育てることにこだわるろうあ者の夫婦を取り上げていた時に、なぜそこまで強いこだわりを?・・と違和感を感じた経験があるが、そのあたりの事情が少しは理解できたような気がする。とにかく痛感したのは、TVや雑誌で見聞きする障害者[問題]像はほんとにホンの一部でしかなく、私はなにも知らないということだった。文章も読みやすく1日で読み切れる本なので、興味のあるかたは読んでみて下さい。

*1:著者はこの点について、被害者よりも加害者になってしまった障害者に視点をあてた方が、我が国の福祉の実態により近づくことができるとの考えを示している