オカルトブームの中で育ちました

一柳廣孝編著『オカルトの帝国 - 1970年代の日本を読む』(青弓社)読了。


 またも図書館本です。【本書は、1970年代におけるオカルトブームを焦点化し、ほぼ同時に発生した多様な事象を詳しく検討することで、現代の日本に広く溶け込んだ「オカルト」の内実を探ることを目的とする。】というもので、小松左京日本沈没』、横溝ブーム、映画『エクソシスト』や『ノストラダムスの大予言』、心霊写真、UFO、超能力ブームなどさまざまな当時の流行現象に触れている。私は単純にあの頃を懐かしむ(笑)気分で読みました。以下、ひたすら自分語り。


 小学校5年生の時の担任教師(当時すでにけっこう年配の女性だった)に、「せんせい、この本おもしろいんですよ〜」とニコニコしながら五島勉の『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)をむりやり貸したのは私です(先生はたぶん迷惑だったはず)。でも、考えてみたら自分がなぜこの本を読もうと思って買っ[てもらっ]たのか、きっかけは全く思い出せない。本書第5章によると、当時「少年マガジン」や「小学六年生」などの子供向き雑誌にもノストラダムスの予言を取り上げた記事が載ったそうなので、そういう媒体でこの本のことを知ったのだろうか。同級生と盛り上がったという記憶もないのだけど。たいていの本は勝手に買っても別にお咎めのない家だったので、あんな怪しげな本でも親には文句を言われなかった。


 映画『エクソシスト』公開当時の大騒動(初日の徹夜行列、入場制限etc.)を取り上げた第4章の内容は、全く初耳といってよいほど。日本公開は1974年で、『ノストラダムスの大予言』出版の翌年なのに、自分の体験としては何も残っていない。近所に本屋はあっても映画館は無かったし、親と一緒でなく自分で映画を観に行くようになったのは(おこづかいの都合もあって)高校に入ってからだったぐらいで、ロードショーと縁が少なかったことも影響している。
 映画タイトルと、首がグルっと回るシーンのことだけはわりと早い時期に知っていたような気もする。今となっては、『エクソシスト』を観て気絶とか嘔吐なんて信じられない、大げさな・・と思ってしまうが、それまでの映画には無い斬新な恐怖表現だったのだろう。こちらも、一般週刊誌だけでなく「セブンティーン」「anan」など女の子向き雑誌などでも盛んにブームをあおったらしい。『ノストラダムス』が「小学六年生」で紹介されたというのに比べると、ややお姉[兄]さん向け媒体が中心だったのだろうか。そのせいで私にはあまり当時の騒ぎを目撃したという感じが無いのかもしれない。あるいは、この映画(そしてそもそもホラー映画というもの自体)が含んでいる性的というかエロティックな性質が、子供の私の眼から意識/無意識的に情報を遮断していたのか(=自主検閲)!?


 それと可笑しかったのはスプーン曲げ騒動を取り上げた第11章。ユリ・ゲラーやそれに続く超能力少年を盛んに喧伝していた日本テレビ&「週刊読売」に対し、「週刊朝日」が《カメラが見破った“超能力”のトリック》と題し、少年が手でスプーンを曲げてから投げ上げている場面の分解写真を掲載してインチキを告発したという顛末は、つい最近の某番組をめぐる騒ぎを思い起こさせる。特に《「週刊朝日」はブーム初期から超能力否定の論陣を張ったわけではなかった。・・・超能力ブームに多少の関心を向けながらも、どちらかといえば距離を置いていた感が強い。》というあたり、“「豚は太らせてから殺せ」大作戦”を当時も用いたのかと笑えます。


 小松左京日本沈没』を取り上げた長山靖生の第2章は、ちょっとパセティックで不思議な感じの文章。

(...)破滅はあまりにもわれわれに親しげだ。あるいは現実に、われわれがそれと気づかないうちに、世界は何度も変貌し破滅してきたのではないかと思われることがある。
(...)いま現在の「これ」は何かの間違いであって、本来の「われわれの世界」は、もっと別の姿をしているはずなのではないかという、それこそグロテスクな想像が、『日本沈没』に代表される1960年代後半から70年代前半にかけての日本SFの根底にある。

 この小説が発表された1973年という年は、「日本列島改造計画」に代表される「近代化政策」のデメリット・メリットともに誰の目にもあらわになってきた時期であると同時に、科学知識と技術の発達がこの小説の執筆を可能とするレヴェルに達した(計算機の登場により、作中で描かれる地震の影響の膨大なシミュレーションが実現したことなど)、そんな時期であったという。そんな「進歩」と「繁栄」の中にありながら、日本人の心のどこかに「破滅」にリアリティを感じる気持ちがあったからこそ、『日本沈没』は多くの人に受け入れられたに違いない。
 『日本沈没』には、最後まで国民の生命安全のために努力する高潔な政府高官や、機能し続ける政府のシステムが描かれているという。しかし実際にはそんな理想的な政府は存在せず、国民は何度も「棄民」されてきた。この小説は、現実には存在しない/しなかったものを描くことでその欠落を際だたせているのだと長山氏は説く。国土を失ってなお守りたい日本人というアイデンティティがかろうじて共有されていた70年代から遙か遠い今、この章が《すでに日本からは、失いたくないほどの何ものかは、すでに失われているのかもしれない。》と切々と結ばれるのを読むと、小松左京が緻密な計算に基づいて描き出したというリアリティあふれる日本滅亡の絵図は、ますます壮大な虚(うろ)を現出させるのだろうと思われ、読みたいような怖いような(つまり読んでない!(^^;))。