遊びつづけろ

 読書のインターバルに、奥泉光町田康の対談を読んでました。たぶん『群像』からコピーしたやつで、2004.4.7「物語る力について」と2005.5.16「物語を打ち破る力」。後者のなかで、

奥泉: (...)読者を多く獲得したいということを含めて、ミステリーの枠組みでいろいろなことをやるのは戦略としては有効かなと、以前から思っているわけなんですが。
町田: ミステリーというのは、基本的に絶対犯罪が起きるんですか。
奥泉: いや、起きなくてもいいんでしょうけど、僕の今回のは起きています。一応殺人事件が。
町田: 殺人という段階で引っかかってしまう。
奥泉: 引っかかるというのは?
町田: つまり、殺人をしたらダメじゃないかと。普通にね(笑)。僕は前提に入っていけない子供ということですかね。

町田: (...)この間の朗読会のときに「本音街」という作品を読んだんですけど、途中で僕、笑っちゃって読めなくなっちゃったんです。
奥泉: そうだったね。
町田: 相当ばかだと思いますよ。自分で書いた小説を自分で笑って読めないというのは。

 ↑ここだけ読むと、えらく可愛い子みたいに見える町田さん。

奥泉: (...)たまのライブは気持ちいいですね。時間に支配されることの快楽というか。例えば苦しい局面に立たされても、あと一時間後には終わっているなと思うと、すごく嬉しい。小説は決して一時間後には終わっていないじゃないですか。自分が書かなければ、自分が終わらせなければ終わりにならないという、このつらさ。
 (中略)
町田: 僕は、思いついちゃっているから、これは書かなきゃダメだみたいなのが面倒くさい。でも、思いつくというのはいいのかな。思いつかなくなると何も書けないんだろうし。
奥泉:それはそうですよね。
町田: なんで僕は小説を最後まで書けているのか不思議でしようがないんですけど。そういうことの連続で、最後まで長篇が書けるというのは、これは神のご加護によって成立しているのではないかと思うぐらいで。
奥泉:それはよくそう思いますよ。小説は終わらせるのが難しいジャンルだから。以前にも別の所で言ったことがあるんだけど、本当は終わらなくてもいいわけじゃないですか。終わらないでフェードアウトするというのはありだと思うんですよ。
町田:だんだん字が小さくなっていって(笑)

・・という会話を面白がって読んでいたら、ちょうど町山智浩さんのポッドキャストで、デヴィッド・リンチ監督が「テレビドラマは結末を考えずに思いつくままに作り始められるけど、映画は最後まで考えてからでないと撮らせてもらえないからイヤだ」というようなことを言ってたという話が出ていた。似ているようで違う話かもしれないけど、いずれにせよ終わりかたを周到に考えておくなんて、子供らしくない