科学から逃れて

 石黒達昌冬至草』(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション) 読了。

  • 「希望ホヤ」
  • 冬至草」
  • 「月の‥‥」
  • 「デ・ムーア事件」
  • 「目をとじるまでの短かい間」
  • 「アブサルティに関する評伝」


 冒頭の「希望ホヤ」は、癌に罹患した娘を救うために、人類にとって夢の特効薬となるかもしれないホヤを(研究用の予備も残さずに)採り尽くして絶滅させる男の物語。いっぽう、最後に収録された「アブサルティ…」は、実験を捏造して追放された研究者の仮説がけっきょく当たっていた。天才的な科学者には直感さえあれば証明は不要なのか・・という話。科学的に正当な手続による実証、というようなものの価値が揺らぐ状況を描いた2つの作品で、この短篇集は始まり&終わっている。

 芥川賞候補にもなった「目をとじる…」は、『メッタ斬り!リターンズ』で「変節」というふうな評価をされていた作品で、たしかに一読この作者の他作品とは異質な感じ。僻地医療にたずさわる医師の困難と倦怠の中で、生きたり死んだりしていく命やら、自分の判断ミスで死期を早めたのかも知れない妻の記憶やらに、バラというきわめて人工的な(人の手による高密度な「お世話」無くしては存在し得ない)栽培植物との関わりを絡ませた、普通小説に近い世界である。

 「月の‥‥」と「デ・ムーア事件」は、どちらもよく似た幻覚(手の上に載っている月、または動き回る火の玉)につきまとわれる人物を取り上げて、前者は完全に幻想小説、後者はいかにもこの作者らしい科学的な手記の体裁で描いた(でありながら最後に思わぬトンデモ方面へ繋がるところがすごく気に入った)もの。表題作「冬至草」もそうだが、とちゅうで話者や証言者/目撃者が替わっていく形式は、事実をさまざまな角度から見せることでやがて意外な全体像が浮かびあがる・・・というような効果を生み出しそうにも思えるが、石黒作品の場合、複数のメモランダムやら報告の形で話がつなげられるにつれて、話者が切り替わるというよりも、事実が次から次へと無造作かつ投げやりに手渡されていくという印象を受け、どんどん何かが遠ざかるような感覚をおぼえるところが奇妙で面白い。

 その「冬至草」は、人の死骸や血液を養分として成長し光を放つ謎の植物に魅入られてしまった異色の研究家を描いた植物ホラー。残された標本を分析する傍ら、郷土史家による評伝・恩師への書簡・助手への聞き書きと幾つもの資料を再構成して、呪われた植物とその研究家を追跡していく語り手の執拗さも、考えてみれば不気味なほど(頼まれ仕事だったはずなのに)。人の怨念を吸収し、かつ我が身に放射能を蓄積させてついには自滅する冬至草に、いろんな隠喩を読みとることもできそうである*1。この作品も「デ・ムーア事件」同様、どこかで見たような陰謀ネタに収束するのだが、それを越えて非現実的な寂寥感を漂わせる、北海道(のおそらく架空の村?)の風景に感動してしまった。

 私が全篇に共通して感じたのは、科学のいちばん先端(必ずしも進歩という意味に限らず)のその先で、およそ科学的ではないように見える何かがすれすれに蠢いているという感覚であり、「冬至草」の冒頭に置かれた「起こり得ないことが起こることで科学は進歩し、科学が進歩すると起こり得ないことが起こる」という警句が短篇集全体にも通じるような気がする。本気とネタの境界線もいまひとつボンヤリしているが・・・

*1:たとえば、意味ありげな「日付」も石黒作品の特徴だと思うが、この作品の冒頭で冬至草が展示される《自然科学の宝庫展》の最終日は2001年9月11日となっている。