きものの花、咲き続けてほしい

 ずいぶん前の日記で紹介した本が、地元図書館に入っているのに今ごろ気づいたので、大慌てで借りる。

 期待以上に見ごたえがあり面白い本だった。『主婦の友』誌は大正6(1917)年創刊。女性誌といえば少女雑誌、令嬢・令夫人向け雑誌しかなかった時代にあえて「主婦」をターゲットとして生まれた雑誌というだけあって、きもの関連の記事内容も、豪華な衣装へのあこがれや流行への意識も織り交ぜつつ、実用的な知識や工夫もたくさん盛り込まれた雑誌だったらしい。

 面白かったのが、ハッキリ値段を強調してある記事。たとえば画像は1933年掲載のもので(女優さんがモデルなのだが、着色写真か絵なのか判然とせず)、左が【四十三圓の上品な外出着(着物三十一圓、帯十二圓)】で、右が【十五圓のお稽古着(着物七圓八十銭、帯七圓二十銭)】と解説されているところがなんとなく可笑しい。でもこれ貴重な消費&文化の記録ですよね。

 1929年には、「東京の婦人を語る大阪婦人の座談会」「大阪の婦人を語る東京婦人の座談会」なる企画が掲載された。出席メンバーは、「大阪婦人」が恩田和子・坪内操・歌川八重子・古屋登代子・小林千代子・澤蘭子・木谷千種・人見絹枝。「東京婦人」が長谷川時雨岡本かの子・田中文子・栗島すみ子・藤間房江・小口みち子・森律子。プロフィール欄の字が小さすぎて読めないのだが、それぞれ作家・画家・女優・社会運動家など著名女性が集まったようだ。東京婦人が「流行の先取りは大阪が早いが、個性がない」と厳しいことをいっているのに対し、大阪婦人が「東京の流行は上品」とほめているのが印象的、と解説されている。また、〈戦前の「主婦之友」誌では、流行を見せるについても、関東と関西の両方を紹介することが少なくなかった〉そうで、1925年の記事は〈以前より流行の東西差はなくなった〉としつつも、「今春の流行の東西の標準色」とタイトルを付けたりしている。

 それからもうひとつ、1967年の記事で、「満つ本」店主松本喜久治氏と女優光本幸子の対談というのが載っていた。「満つ本」というお店は東京の呉服の名店、ということしか知らなかったので、松本氏が関西弁で話していることに驚いたが、上記サイトの紹介文では〈皇太后様御成婚の頃より、京都西陣より毎月上京いたし、[....] 東粋京趣(関東の粋と関西の趣き)をモットーとして〉とあるので、おそらくご店主は京生まれの人だったのだろう。


 この本を見ていて実感するのは、1930年前後(ちょうど昭和ひと桁ごろ)の着物がいかに豪華で豊潤な美しさを持っていたかということ。もちろん当時の女性皆がそんな着物を所有できたはずもなく、雑誌の紙面を彩った晴れ着は一部の豊かな階層のみに許されたぜいたく品だろうが、それにしても“あの戦争が無かったら・・・”と思わずにいられない。派手な着物に禁止令が出された時期、手持ちの着物も金糸銀糸が目立たないように薬品で処理する方法も記事になったそうだ。
 つい先日、新聞の投書欄で(たしか80歳位の)女性が、十三詣りのきものの思い出を綴っておられるのを目にした。お祖父様が柄を選んで誂え染めされたというその着物は、後にも先にもその日たった一度袖を通しただけで、戦争中に食べ物と換えてもらうため地方の農家の手にわたったという。未だに克明に記憶に残るその着物の柄ゆきをこまかく説明するその投書を読んでいると、この高齢の女性の切ない思いにまさに胸を締めつけられた。
 じぶんの好きな着物(大切な人に選んでもらった物はなおのこと)に対する女性の気持ちには、どうにも説明しようがないものがある。いま再び着物ブームのおかげで、着物を愛好する人たちが定着しつつあると思うが、着物を愛し楽しむことが許されないような時代が二度と来てほしくない、と痛感させる本でもあった。