スティーヴン・キング「霧」再読了。(スティーヴン・キング傑作短篇全集[1]『骸骨乗組員』所収)
- 作者: スティーヴンキング,矢野浩三郎
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 1988/05
- メディア: 文庫
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映画『ザ・ミスト』は、ラストが原作とちょっと違っているというのも話題になっているそうだが、その原作「霧」のほうも、最初にアンソロジー『闇の展覧会』に発表されたものと、この『骸骨乗組員』所収のものとでは少し書き変えられていてニュアンスの違う幕切れになっているとのこと。『闇の展覧会』は未見なので機会があったらぜひ確かめたい。
約20年ぶりに再読した本作、中身も全くおぼえてなかったし、
老木はいつも、トールキンの優れた『指輪物語』に出てくる、悪意をもった木の化物エントを想起させる。老木は人を傷つけようと機会をねらっているのだ。
やつらはラヴクラフトの小説に出てくる不死の生命を有する怪物などではけっしてなく、それなりの弱点をもった有機生物にすぎない。
なんていう箇所は、トールキンもラヴクラフトも読んでなかった20年前の私はわからないまま読み飛ばしたはずなので、それだけでも読み返した値打ちがあったというものです。
これもまた本筋とは関係ないが、主人公の独白のなかで:
子どもは大人のようにはショックと闘わない。子どもはショックに順応する。おそらく十三歳くらいになるまでは、絶えずショックを受けつづける状態にあるからだろう。
自分の内部で新しい知覚の扉が開きかけているのを知って、あらためて恐怖をおぼえた。新しい?いや。古くからある知覚の扉だ。全宇宙の九十九パーセントを閉めだしてしまうトンネル性視野を発達させることで自己を護る方法を、まだ知らない子どもの知覚。子どもは、目に映ったものをすべて見、耳にはいってくるものをすべて聴く。だが、人生とは、認識を高めてゆくことであるとしても、それは同時に、情報入力を減らしてゆくことでもあるのだ。
恐怖とは視野と知覚がひろがってゆくことである。わたしはいま、人がお襁褓をトレーニングパンツにはきかえたときに棄て去ってしまう場所へ、自分がふたたび泳ぎもどろうとしていることを知って、慄然とした。
べつに珍しい見解ではないかもしれないが、ここを読んで、自分がなぜ「恐怖」を求めるのか、自分にとってなぜ常に「恐怖」が「懐かしさ、ノスタルジー」に結びついているのかを、改めてわかりやすく解説してもらったような気になった。