みることの沈黙

廣野由美子『視線は人を殺すか―小説論11講』 (ミネルヴァ書房) 読了。

視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

 以前に同じ著者のこの本を読んで面白かったので、ただしこんどは図書館で借りて読んだ。
 小説で視線が果たすいろいろな役割を論じている。文字通りのまなざし・目つき、といったものから、目撃・見て気づいてしまうこと、いろいろな意味がそこには含まれるが、私がいちばん心惹かれるのは、『緋文字』『レベッカ』の二作をとりあげて「脅かす視線」と題した章である。目撃あるいは監視(見て知ってしまったぞ、ずっと見ているぞ)というかたちで相手を支配下に置きコントロールする。また、目つきに込めた侮蔑や憎悪といった感情によって相手をしだいに追い詰めていく。というような視線の権力・暴力が物語を動かしているという指摘にスリルを感じた。


 しかし、それとは別に、ここで紹介されている小説の中で異様な面白さを感じたのは、シャーロット・ブロンテの『ヴィレット』と、ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』である。
 前者は、不器量で地味な「魅力的でない」女がヒロインに採用されていること、しかも従来の女性キャラには「見られる」役割が割りふられる傾向があったのに比べて、この語り手のルーシーが徹底的に「見つめ続ける」主体と設定されている点で斬新であるらしい。冴えない容貌、暗い性格で誰からも注目されないどころか、秘かに思いを寄せる男と同室にいても居ることに気づきさえされないような「取るに足らない(nobodyノーボディ)=何者でもない者」としてのこの女主人公に、厭だなぁと思いつつ同情してしまいそうだ>私。しかも彼女は、さる重大な事実に気づいていながらそれをアッと驚く地点まで読者に明かさない(ミステリならおそらく禁じ手でしょう)。《したがってこの小説は、あくまでも「視線」を描き取った作品であって、必ずしも視点の主体である人物の意識や感情を明かすとはかぎらないのである。》けっきょく彼女の運命の結末も、暗示されるのみであきらかにされない。
 後者は、メイジーという幼い少女が、離婚した両親やそれぞれの再婚相手の放逸な男女関係に巻き込まれ振り回されつつ、それを子供なりの鋭敏さで観察するという話だが、「全知の語り手」による三人称形式で書かれ、子供が見た世界を別の(大人の)言葉で語ったような仕掛けになっているらしい。ちょっと腹話術のような光景が目に浮かぶ
 一人称の語り手でありながら見るだけで(見たもの全ては)語らない、あるいは見ることと語りとが、奇妙な形で乖離している、そんなこの2作にもちょっと興味を抱いた。いや、あまり読みたいとは思いませんが(汗)



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 ところで、例によって本書の本題からは全く話が逸れるが、アーノルド・ベネット『老妻物語』という小説を論じた一節に、以下のような説明がある:

 この小説は、バーズリー(イングランド中部スタフォード州の町)の呉服屋ベインズ家の二人の娘コンスタンスとソフィア姉妹の半生を描いた物語である。

 この呉服屋というのはなんのことでせう!? この小説は原題を"The Old Wives' Tale"といって1908年の作品だそうだが、巻末の参考文献一覧によれば岩波文庫から小山東一訳『二人の女の物語』として1962-63年に邦訳が出ているらしいので、あるいはそこの訳文に「呉服屋」という語が使われているのだろうか。1960年代にしても、訳語はもうちょっとなんとかならなかったのかという気がするが、それをまた21世紀にそのまま引用する必要があるのかいな、と不可解に思われる。原文(英語)ではいったいどう書いてあるのか気になってしまう。



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 著者の廣野由美子氏が《異界の〈私〉- 一人称小説を読む -》という題で講義をされる公開講座があるらしい。
 平成20年度京都大学大学院人間・環境学研究科 公開講座 「虚実の世界」 — 京都大学
 聴講してみたいけれど、2日間全6講座で6,200円という(もちろんそれ自体はreasonableな!)受講料が私としてはちょいと痛い……もうしばらく悩みマス(--;)ゞ