石垣を越えゆきてかえりし物語

 『ゲド戦記外伝』(事実上の第5巻)読了。

ゲド戦記外伝

ゲド戦記外伝

 いちばんドキドキした箇所がここ:

(...)「生涯に一度は、もし運がよければの話だが、魔法使いにも語らえる相手が見つかるものだよ。」ロークを去る一日二日前の晩、ネマールはそうダルスに言ったことがある。ネマールが大賢人に選ばれる一年か二年前のことだ。ネマールはその頃様式の長で、ダルスが学院で世話になった長たちの中で、これほど親切な人はなかった。「ヘレス、そなたが残ってくれたら、わしらはたがいにきっといい話し相手になれると思うがな。」
 ダルスはどう答えてよいかわからなかった。(...)
(「地の骨」p232)

 大賢人ネマールさまが、ロークの魔法学院を出て行こうとしている若きヘレス*1を訥々と口説くシーン。これは愛の告白ではないでしょうか。私の頭に「ふ」が入ってるだけでしょうか。
 ともあれ、今はすっかり年老いたヘレス=ダルス、その師を尊敬し仕え続ける非常に寡黙な弟子のダンマリ=のちのオジオン師匠という静かなつながりを描いたこの短めの一篇が最も気に入った。


 ところで。
 『さいはての島へ』の結末で、ゲドとレバンネンを探しに黄泉の世界へ赴き、彼らと同様にそこから戻ってきた呼び出しの長トリオンが、『外伝』のさいごに収められた「トンボ」では権力欲のとりこのような邪な存在に変貌してしまっている。
 第1巻で、駆け出しの魔法使いだったゲドがロー・トーニングという島で、親しい船大工から「病気の我が子を助けて欲しい」と請われる挿話がある。子どもは手の施しようのない状態だった。ゲドは、薬草の長から与えられた《傷を癒し、病気を治すこと。ただし、黄泉の国に向かわんとするものには手を下さぬこと》という教えを忘れて、《死出の旅に出た子どもを追って、あまりにも遠くまで来てしまった》。そして自分までが待ち受けていた「影」にあやうく囚われそうになってしまう*2。ゲドはその前に既に一度、自分の魔法の力におごって「影」を自ら呼び出してしまうという過ちを犯していたので、厳密にはトリオンと少し違う条件下ではあるが、相似形ともいえる場面がここで繰り返されているのが印象に残った。
 ここには「死の世界に安易に触れてはならない」と同時に「いったん死の世界へ入った者はむやみに取り戻してはならない」という教訓が示されている(仮死状態から目覚めたとき、トリオンは別人のようになってしまっていた)。同時代人である作者は当然、現代の医療技術etc.が生死の境を揺り動かしているさまを見つつこれを書いているはずだと思うと、現実の(日々問い直されている)生と死の境い目や、そもそも帰ってきてはいけない死「者」とはどんな誰なのかということに、思いが延伸していってしまう。

*1:真[まこと]の名。通称がダルス

*2:ここを読んだ時、かつて「手を尽くしてもどうしても救えない命があるのはなぜか」との疑問から某カルト教団に走ってしまったという医師の話を思わず連想した。それから『ペット・セメタリー』とか。