通じなさに囲まれて

森岡正博『33個めの石』(春秋社)読了。

33個めの石 傷ついた現代のための哲学

33個めの石 傷ついた現代のための哲学

2007年、米国・バージニア工科大学で銃乱射事件が起きた。
キャンパスには犠牲者を悼む32個の石が置かれたが、
人知れず石を加えた学生がいた。
33個めの石。それは自殺した犯人の追悼である。
石はだれかに持ち去られた。
学生はふたたび石を置いた。それもまた、持ち去られた。
すると、別のだれかが新しい石を置いた。
 (帯裏より)


 この本の中に書かれたエピソードでいちばん面白いと思ったのが、【異邦人である私】という章にとりあげられたものである。この章には、障害をもつ(と思われる)人との出会いというか交錯の瞬間がいくつか書かれているのだが、なかでも雑踏のなかで挙動不審?な男性が筆者に近づいてきた話がすごく印象に残る。

 そのとき、遠くのほうで、スーツを着た中年の男性が、両手を思い切り広げて、体をくねらせて踊りながら歩いているのが見えた。酔っぱらっているのかと思ったが、そういう様子でもなかった。その男性は、不思議な踊りをしながら、徐々に私たちのほうに近づいてきた。
 その男性と私の目が合った。彼は、私のそばまで一直線に歩いてきて、私の顔を覗き込み、意味不明の言葉をべらべらとしゃべり始めた。学生たちがその男性と私のあいだに割り込んで、「先生、あっちへ行きましょう」と言ってくれた。私も、そのほうがいいと思い、その男性から離れた。
 そのとき、その男性の言葉が瞬間的に聞き取れたのだった。彼はどもりながら、「あなた、こないだテレビに出てたでしょ」と言っていたのだ。たしかに私は教育テレビに出演していた。私は彼の言動を疑ったことを恥じた。言葉を返そうとしたが、彼の姿は人混みにまぎれて、もうどこにも発見できなかった。

 この話にかぎらず、本書で取り上げられたさまざまな場面のうち幾つかに共通して私が思い浮かべた言葉は「通じない」というものだった。この世の中は通じないことだらけ。コミュニケーションとか対話とかいう以前の、そもそも「応対」することにすら失敗してしまう、こんな↑ふうに。


 エピローグのなかで、バージニア工科大学が公式に建立した追悼の墓石には32名の犠牲者の名前だけが刻まれたことが紹介され、それでも《33個めの石が個人によって自発的に置かれ、キャンパスの芝生の上で追悼の対象となったことに、われわれは小さな希望を見出すことができる》し、《33個めの石が大学という組織によって認められなかったところにこそ、真の希望が宿っているとさえ言えるのかもしれない》と著者はいう。しかし、《敵と味方の対立を無効化し、「やられたらやり返してやる」という報復の連鎖を超越していく物語》が、当の事件で殺害された学生の遺族に共有されることはとても困難に思える。
 家族を殺された者の心情が、ほんとうに死刑廃止論者に通じているのか。「君が代」が流れる時に起立せよと言われたってどうしてもそうしたくない者の気持ちは、「そんなもん、ちょっとぐらい我慢して立っといたらええやん」と考える者には永遠に通じないだろう(たぶん)。「ゲルニカでもドレスデンでも大勢の人が殺されたのに、広島だけがどうして特別なのか?」という“正論”が、《広島を血肉として生きてきた人》には通じないように。わたしがあなたではないように。


 33個めの石が現れたり消えたりするさまは、通じるはずのない世界で、一瞬なにかが通じる可能性が点滅しているところだろう。ちょうど雑踏のなかで著者が聞き取れた(と思っただけで勘違いだったかも。もう確かめようもない)言葉も、同じように一瞬だけキラっとそこに姿を現して消えていった。この場面はほとんど神秘体験というか見神体験(?)みたいで、本の題名になった33個めの石のエピソード以上に強いインパクトで私の記憶に刻まれてしまった。


 ところで以前に私は『アメリカン・ヒストリーX』という映画を観て、(映画が本来訴えたかったことがどうだったにせよ)むしろ「(怒りと憎悪の反復から降りて)赦す」ことの苦しみがどれほど続くかを想像して絶望的になってしまったのだった。本書の【赦すということ】の章では、家族を殺された人が殺人犯と和解する試みを取り上げて、

 愛する家族を殺された者が、殺した者に対して、もし赦しの気持ちを持ち得るとすれば、その気持ちは、何か「この世」を超えた視点から降りてくるしかないように、私は感じる

として、そこが「宗教というものが発生する現場」であるだろうと書かれている。私も、『アメリカン・ヒストリーX』の結末で、主人公が「赦すことの苦痛」を耐えるには、なにか宗教的なものに凭りかかるしかないだろうというふうに思ったのだが、それはたとえば本書37ページで批判的に(ですよね)言及されているような、痛み止めになりさがった宗教とは違うものなのか。このへんから先の道が、とても狭くてグルグル巻きになっていて、よくわからなくなってくるんよ私には…。