そこ、映ってるよ

金井美恵子『昔のミセス』(幻戯書房) 読了。

 この本に収録された『ミセス』誌連載記事のなかで、金井美恵子は「妻としてエッセイストとして」「スターとして映画女優として」と題した2章を高峰秀子に割いている。映画『女が階段を上がる時』('60)で、監督の成瀬巳喜夫が高峰秀子に衣装監督をまかせたという話のくだりで、

五十何人という出演者の衣装を、〈ひっくるめて六十万円の予算〉の中で俳優たちの出番とからみの場面を考慮に入れながら、セットデザインと衣装の調和、衣装にあわせたネクタイ、マフラー、アクセサリー、ショール、手袋と言った小物にいたるまでの選定を〈役柄の年齢はもちろん、その人の環境、収入、性格などを充分納得〉したうえで決めて行く大変な作業を主演女優の仕事と同時に進めるという衣装担当監督高峰秀子の仕事が、映画の公開時もその後もどう評価されたのか、映画評論を生業とする者に圧倒的に男が多い以上、キャメラや演出に触れても衣装などほとんど眼に入らないらしく、一向にわからないのだが、(太字強調は引用者)

とあるのを読んで、あんまりというか殆ど関係ないのだけど思いついた話。

 私は、よくテレビのインタビューなどの画面で、喋っている人物(それも芸能人とかでなくて、コメントを求められた有識者とか、要するにテレビに映り慣れていない人)の髪形とか服がおかしなことに(とくにネクタイがゆがんでたり衿がヘンなふうにめくれていたり)なったまま撮られているのを見かけるとイラッとしてしまう。その人物がまぁどうでもいいようなオッサンの場合はともかく、女性がせっかく凝った襟元の服を着ているのに片方がズレ落ちて左右が非対称になってたり、着物の振りから襦袢の袖が飛び出しかけていたりすると、あぁ誰も直してあげる人はいなかったのか!と悲憤にかられるわけである。
 これがひと昔前なら、「テレビ番組なんて雑な神経の男ばかりが集まって作っているのだから誰もそんなこと気づかないんだろうなぁ」と納得もしたのだけど、今日びテレビ制作にたずさわる女性はずいぶん増えただろうし、男だって(自分の)身なりに気遣う傾向が強まって久しいのだから、撮影現場にひとりぐらいそういうところにチャチャッと気配りできる人間がいても良さそうに思うのだが、やはりときどき変な恰好のまま喋らされている気の毒な人を見かける。


 先日も、NHKハイビジョンで
ハイビジョン特集「復活した“脳の力”〜テイラー博士からのメッセージ〜」

全米で今、多くの人々に希望と勇気を与えている一人の脳科学者がいる。ジル・ボルティ・テイラー博士(49)。脳卒中で言葉を失って8年、再生を果たした彼女の軌跡を追う。

という番組を観ていたところ、中村桂子氏がそのテイラー博士に面会してインタビューする場面があり、そのなかでテイラー博士のシャツの衿が片方だけジャケットの衿にもぐっているのを見て、またもや私は「撮ってて誰も気づかんのか!?」と腹が立ったのだった。テイラー博士はいかにも科学者という風貌で、身なりにやや無頓着であっても不思議ではない感じの女性だったけど、やっぱり同じテレビに映るんなら衿はきちんと左右対称になってるに越したことないでしょ?対面して座ってるはずの中村博士も注意してあげたらいいのに、やっぱり気づかなかったのだろうか(科学者だから)?…などと、じぇんだーバイヤスかかりぎみの憤りで鼻の穴を膨らませつつ見続けていたら、次にカメラが切り替わったところでは衿が直っていた。とちゅうで誰かが気づいたらしい。ホッとした。
 これがスチル写真の世界だったら、髪や服装が乱れたままでうっかり撮影されそのままプリント・印刷されることはまず無さそうな気がする。なぜテレビでは未だに、緊急生放送でもないのにゲストの身なり(特に衣服)の状態に気配りが欠ける場面を見かけるのか、ちょっとした謎である。