ゴッドであってモンスター

 邦題は『ゴッドandモンスター』だと思っていたけどDVDでは↑こうなっとるね。

 エレガントで茶目っ気あり、プライドが高く枯れ切れない爺さん=イアン・マッケラン。アメコミから抜け出してきたような、あるいは西海岸のアポロ神みたいなブレンダン・フレイザー。どちらもこれ以上なさそうな配役の妙と熱演で、ふたりの男がしばし共にした日々が悲痛かつ滑稽に描かれる。
 『フランケンシュタイン』などの恐怖映画で名声を博した映画監督ジェームズ・ホエール(=マッケラン)は、1957年には既に引退して穏やかな生活に身を潜めている。脳卒中の後遺症で、突然フラッシュバックする過去のあれこれに悩まされるようになった彼は、かつて愛した青年たちの面影も幻視する。そこには第1次大戦中の恐ろしい体験が、わかちがたく重なって焼きつけられている。たまたま通ってくるようになった庭師クレイトン(=フレイザー)が元海兵隊員で朝鮮戦争経験者と知って、「安楽死をどう思う?」「瀕死の兵隊を見ただろう?」とむやみに死を話題にしたがる。実のところホエールの願いは「このまま死んでしまいたい(あわよくばキレイな男の子の腕の中で)」という感じ。

 最初は、ホエールが死のことばかり考えているのは、老齢で病気にもなり、さらには後遺症でいろいろ思い出してしまうようになったからだろうと思えるのだが、やがてそうではないことがわかってくる。彼の愛する同僚が戦闘中に無惨な死を遂げ、生き残った者たちはそれを笑いに変えることでなんとかやり過ごした、という辛い記憶が明らかにされる。死はずっと彼のそばにつきまとっていたのだ。彼が自分の恐怖映画作品を「コメディ」と呼ぶのは、そうすることでしかあの惨たらしい大量死の記憶をおさめておくことができなかったからなのだろう。

 クレイトンはじつは(挫折の翳りはあっても)戦争で手を汚すことを免れた存在であり、「俺はお前のモンスターじゃない!」と、ホエールの死への渇望に手を貸すことは拒んで、無垢のまま明るい世界へ帰ってくる(ラストシーンは結婚して小さな息子もいるクレイトン)。フレイザーはよく言われるところの「ベトナム戦争以前のイノセントなアメリカ」を体現するにふさわしい風貌で、この役によくはまっていると思った。
 ホエールは映画を通して、なんとか死をかみくだこうとし続けていた*1ということが垣間見える。もしこの映画のなかの彼のセリフや語りくちが実像に近いものなのだとしたら、ホエールはそんなに偏屈な変わり者という感じではなく、けっこう率直で愛すべき人柄の持ち主だったのではないかと思う。そして(映画や小説における)「ホラー」は、死とその恐怖/魅惑を手なずけるための懸命の営みであることがまじめに描かれているように思われ、「ホラー」愛好者として心温まる作品であった。

*1:そして最後に戦争についての映画を作ろうとして不当に介入されたために引退を決意したと言う