こんな未来を知っていたなら

 『小松左京の大震災 ’95―この私たちの体験を風化させないために』(毎日新聞社
)読了。


 地震現象そのもの(どのように起きた)の探究から、あの朝自衛隊や消防は、マスコミはどう動いたか、地震の観測や研究の現状、被災者サポートの問題点、失われた街並みへの愛惜と、いちはやく再起した文化イヴェントへの賞賛、いろんな要素が詰まった一年間の記録。
 ラジオパーソナリティの川村龍一氏が、朝の番組のため放送局へ向かう車中から携帯電話でスタジオへ連絡し、周りの状況をレポートし続けたというエピソードは、初めて詳しく読んだ。


 さまざまな専門家との対話も収録されているが、弘原海清大阪市立大学理学部長の話に出てくる地震の前兆現象の件が面白い。ナマズなどの動物だけでなく樹木や、地震雲などさまざまな前兆が起こっている可能性があるらしい。だからといって「地震予知」ができることにはならないし、予知できたとしても被害軽減に繋がるとも限らないのだけど、やっぱり期待してしまう。
 それに対して、本書のなかで一番重いトーンを感じるのが精神病理学者の野田正彰氏の次の発言。

野田 全国からたくさんの人が義援金を出しましたね。多くの人は国が被災者に何らかの援助金を渡していると思っている。それに加えて自分も渡そうと。しかし、国は被災者に援助金を出していない。国は災害の時に、個人補償をしないという前提を維持している一方で、国民はそう思っていない。例えば、被災地の人は自分は国民だから当然、家ぐらい何とかしてくれると思っている。
小松 税金を払っているしね。
野田 だから、仮設が欲しいと言っているわけです。だけど、政府はそのことをあいまいにして災害援助法を援用しながら拡大解釈で造っているだけなのです。(略)災害を通して街づくりをすることと、被災者の援助との関係が、どうあるべきか議論されないといけない。被災者は不幸な目に遭ったのだから、社会は少しは援助してくれると思っているのに、街づくりが進んでいくうちに、いつの間にか、被災者は外に出てくれというふうになってしまっている。今までの都市計画は全部そうです。

 先ごろ、震災15周年の特別番組がいくつかテレビ放映されていた。そのなかで、「復興」「再開発」の名のもとに個人私有の土地がそれぞれ少しずつ削られて、道路だけが広くきれいになり、狭すぎてとても家が再建できなくなった被災者当人はけっきょく街を去らざるを得なくなったケースが紹介されていたのを、野田氏の指摘を読んで思い出した。


 いまこの本を読んでいると、震災当時は既にバブル崩壊後なのだけれど、少なくとも小松氏は震災後の一年間から、困難ななかにも確かな復興への動きを見つけて「きっとやれる、阪神間パワーはこれでは終わらない」という手ごたえを感じ、それを伝えようというふうに書いている。あの当時、(小松氏だけでなく)多くの人が思い描いた15年後は、おそらく現実の今より明るい色彩だったのではないだろうか。


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 そんな事を考えていたところへ、流れたニュースが、四条河原町阪急の閉店。
「四条河原町阪急百貨店」が閉店を発表: 三月記(仮題)

阪急百貨店は1976年の開店で、オープン前には、当時急速に全国展開していた紀伊国屋書店が進出するらしいとの、かなり信憑性の高いうわさもありましたが、オープンしたら書籍売場そのものがありませんでした。京都の書店組合が強力に反対したとも、あのころは全国有数であった河原町の書店群に紀伊国屋がビビッたとも言われましたが、実際のところは不明です。

 そうそう、当時は四条通河原町通にかけてS々堂やK書院が複数の店舗を構えてブイブイ言わせて(?)いたのだった。いずれの書店も消滅してから何年も経つ。30年前に、いまの河原町界隈の惨状(と敢えて呼ぶ)を想像する人がいただろうか。大震災と並べて語るのは不謹慎かもしれないが、個人的になんともいえない感慨をおぼえたので、書いてしまった。