巨体の周りをグルグル

巽孝之『「白鯨」アメリカン・スタディーズ 』(理想の教室/みすず書房)

『白鯨』アメリカン・スタディーズ (理想の教室)

『白鯨』アメリカン・スタディーズ (理想の教室)

 3/9に読了。以下は、気になった点のメモ。

  • 『白鯨』に影響を受けて後に書かれた諸作のひとつとして、マーク・ダニエレブスキー『紙葉の家』が挙がっていた。この本が出て話題になった頃には、ものすごく難解で不気味そうな本(それに値段も高価)だし、私には縁のない本だわーとしか思わなかったけれど、図書館にあったら一度みてみよう。

紙葉の家

紙葉の家

  • 1956年に脚本レイ・ブラッドベリ、監督ジョン・ヒューストンにより映画化された『白鯨』では、謎の拝火教徒フェダラーの存在がきれいに割愛されている(その結果、エイハブ船長の最期の様子に関しても原作とは異なるイメージが広まる原因にもなったと筆者は指摘)。それに先立つ1926年、ミラード・ウェブ監督、ジョン・バリモア主演のサイレント版『白鯨』は、それこそ原型をとどめないほどストーリーが変形されているらしいが、こちらにはフェダラーはちゃんと出ていて、なんと日系人俳優の上川草人が演じているそうだ。フェダラーが正確にはいったい何民族/人種だったのかは原作を読んでもはっきりしない。メイクや衣装(たぶん現在の目で見たら噴飯物の)でいろんな人種を演じわけ?ていた上川は、むしろ適役だったのかもしれない。どこの誰でもない、とらえどころのない不気味な「異人」。
  • 『白鯨』第1章に出てくる(注:以下は、『「白鯨」アメリカン・スタディーズ 』から引用)
「大接戦をきわめるアメリカ合衆国大統領選挙」
「イシュメールなる男、捕鯨の旅へ」
「アフガニスタンにて血みどろの死闘」

という唐突な「演目表」は、9.11以降、まるでメルヴィルが150年後を予言したようにも読めることから、巽氏を含む多くの文学者によって言及されたとのこと。私も最初にここを読んだ時には、時間がいきなりループするのを見たような、クラクラするような気分を味わった。
 今回、『「白鯨」アメリカン・スタディーズ 』を読みながら読み返した、第36章「後甲板」に次のような一節がある:

(...)「船長、エイハブ船長」スターバックが船長に声をかけた。スターバックは、スタッブ、フラスクとともにここまでじっと上司を見つめつつ、ひそかに驚愕の念を募らせてきたのだが、ことここに及んでようやくその場の不思議ななりゆきの全体に気づくところがあったのか、こういったのだ。「船長、エイハブ船長、わたしもモービィ・ディックについては話に聞いたことがあります。しかし、あなたの脚を奪ったのはモービィ・ディックではなかったのでは?
 「なかった?そんなこと、誰から聞いたのだ?」エイハブ船長は語気鋭くいい放った。そしてしばし思いをめぐらせていたかと思うと、「いや、違うぞ、スターバックよ、それにここにいるみなのものよ、それは大いに違うぞ。おれの帆柱をへし折ったのはモービィ・ディックだったのだ。モービィ・ディックが、おれを、こんな死んだ切り株みたいな義足に押しつけたのだ。然り、しかとそのとおりなのだ。しかとな」とここまでいうと、すすり泣きをはじめるのであった。 (講談社文芸文庫『白鯨』(上巻)393-394ページ、太字強調は引用者)

 モービィ・ディックを見つけた場合の報奨金として金貨を示しながら、エイハブ船長が乗組員達を鼓舞する場面。船ぜんたいが熱狂に支配されたなかで、ひとり冷静なスターバックが投げかける疑問と、反論しつつもまるで虚を衝かれたように「しばし思いをめぐらせ」るエイハブの微妙な躊躇。復讐に我を忘れたかのようなエイハブを、《テロとの闘い》へ突き進んでいった合衆国大統領と重ね合わせて読む時、「ほんとうにそれが闘うべき相手なのか」というこのスターバックの問いもまた、あの時の現実に堅く結びついた問いとして、とつぜん鮮明な輪郭と共に立ち上がってくるような気がする。きっとまた、世界は何度も『白鯨』の物語の中へ還流していくことだろう。