でもお前は先へ進まなくちゃならない
アメリカのTVキャスターが、「《明日(あした)があること》の歓喜が世界へ伝わっています」と言ってたそうです。
チリの鉱山事故現場からの救出が始まったのと同じ日に、コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』読了。

- 作者: コーマック・マッカーシー,黒原敏行
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/30
- メディア: 文庫
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こちらは、明日がないどころか、昨日はあったものまで根こそぎ無くなっている世界の話。
何を犠牲にしてもとにかく銃所持の権利を死守したがる一部アメリカ人の思い描く世界とは、こういう感じなんだろうな。今はどうであれ、世界はこのように始まったのであるしこのように終わるであろう、という感覚。核戦争で滅びるにせよ、滅びていく際には銃が必要。
この邦訳の文体からは読点「、」というものがいっさい排除されていてその圧しつけてくるような息苦しい文体を這いくぐる気分で読み進めていると頭の中ではなぜか遠藤憲一のナレーション声が再生されてしまう。それはいま目の前で起きていることを語っているというよりもむしろ早く思い出して言葉にしてしまわなければ次から次へと失われていく断片を必死でつなぎあわせようとする焦燥感をたたえているようでひょっとしたらもう全てが終わったあとで誰かが語っているかのようにも思えるのだ。
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ところで、途中で登場する謎の老人(ただひとり名前を与えられた登場人物、イーライ)が、この荒廃しきった世界を前にしてこう述べる場面がある:
みんないなくなってしまったほうがいいんだ。/ みんなにとって。 / そう。みんなそのほうがよくなる。 / 本当だよ。みんないなくなったらいるのは死だけになるが死の時代にも終わりが来る。 / いずれそうなるんだよ。それのなにがいけないかね?
無理やりな結びつけと見えるだろうが、先日読んだ『産霊山秘録』にも、オシラサマと呼ばれるある特殊な血筋に産まれた女(?)が、「ヒ」の一族のひとりである佐助とこの世の成り立ちについて対話する場面がある。
生(あれ)のない岩原の美しさを知るがよい。生の姿を留めぬあの岩原こそ、争いのない楽園じゃ。祓い清まった神の国じゃ。
「ではなぜ産まれた。生を産んだのも神の業であろうが」
おろか者め。生の本性は生なき物と生なき物のからみ合いじゃ。清きものと清きものが混じり合うて、思わぬ穢れを産んだのじゃ。
「ならば神の縮尻り(しくじり)ではないか」
そうとも。神はそのつぐないに産霊を仕掛けたのじゃ。(...)生の願いを叶えつづければ、やがて生はおのれの死を願うようになるのじゃ。神はおのれの作りだした穢れ自身に、潔い死を望ませるまで願いを叶えつづけるのじゃ。
この、(われわれの)生こそが一時の誤謬だったのであり、世界は終わって正されるだけなのだという感覚は、イーライの語りとどこか似ているような気がした。私の理解が的外れでなければ、グノーシス的、な。
『産霊山秘録』では、この産霊(むすび)はいわば「ヒ」一族を介して世界を浄化するシステムとして《この世の外へくくりつけられ》ているらしい。
亜空間に設けられた乳白色のドーム(...)実は完全にシールドされた亜空間を保つ進歩した科学装置なのである。
― このようなものを作れる、知恵の進んだ人間…神のような人間が昔いたのです。これを作った人々は遠い昔この世を去ってどこか別の世へ移り。やがて私たちの祖先がかわりに生まれはじめたのです。だから私たちも去った人々のように賢くなれるかもしれません。その日が来れば、日でりも洪水も地震もない、住みよい世になりましょう。
というぐあいに、思わぬスケールで(笑)前の世界から次の世へ接続されていく『産霊山秘録』に対し、『ザ・ロード』では、父と息子という最小単位が、終わっていく(あるいはもう終わったあとの)世界を何とか乗り越えて行こうとする。ふたりは自分たちを「火を運ぶ」者と呼ぶが、最後に善きものと信じた相手に自らを手渡すこの少年こそが「火」なのだろう。信じた相手は明日にも裏切るかも知れず、たとえほんとうに善であったとしても明日は他の悪に倒されるかもしれないが、彼は自らを投じた。どこかへテレポートしていった『産霊山秘録』の飛稚(とびわか)のように。
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一番最後の一節を読んで『西瓜糖の日々』を思い出した。あの小説の終わりかたをおぼえているわけではないんですけどね。