映画『ザ・ロード』

 コメント欄でKAYUKAWAさんにお勧めいただいたのも嬉しかったので、思いきって母と一緒に観て来ました。原作を読んだ時の感想はこちら


 原作にかなり忠実に、しかも要所を分かりやすくクッキリ強調した感じで、良い映画になっていた。
 例えば、集団で武装して他人を襲い、人肉を食べている者たちの存在。原作にも登場する場面・エピソードだが、あのフラットに抑えた独特の文体によってどこか墨絵のようにも感じられた(それがかえって、いろんなものを見てしまったのと、寒さとのせいでやや無感覚になったまま生き延びていく感じをよく出してもいたのだけど)光景が、生々しい映像になると、息子を抱えて必死で逃げる主人公=「彼」の息づかい、冷たく湿った地面に伏せて身を隠す感触まで伝わってくるようで、一気に恐怖と緊張に満ちた場面になる。そういう、よい意味で映画的なスリルとアクション性が加わっていた。
 また、父子のもとを既に立ち去った(そしておそらく自ら命を絶ったと推測される)母、すなわち「彼」にとっては妻の存在。原作では「彼」の視点からしか描かれていないので、これもまたどこか消え去った幻のような、頼りない影像めいた姿に見えていた。しかし、短い場面ながら女優の肉体と表情を伴うと、そこに確かに苦悩し絶望したひとりの女性が、全くの孤独のなかで主体として決断し立ち去っていくという行動が、原作とは違う鮮やかさで迫ってくる。(シャーリーズ・セロン『ディアボロス』で観た時にきれいなぁ…と思って以来わりと好きなんだけど、大事な出演作はまるで観てない。あの映画でも、彼女は放心と受難のアイコンだったな)


 そして、原作も映画もいちおうモノローグも含めて「彼」の視点で進行するので、「彼」が主人公、というふうに読み、そして映画も観たわけだけど、映画の最後は、息子である少年の顔のクロースアップで終わる。ここで私は、やはりこの物語の主人公は最初から「息子」だったんだと考えを改めた。
 私たちは父を全能と信じ、父が私たちをこの危機から救い、父が道を示し解決を見出してくれると期待した。けれども父はこの世界を正せはしないし、実は父はこの世界の過ちにもともと何の関係も責任もなく、ただの無力な弱者だった。私たちは父を信じたが、もうこの世界に父はいない。私たちは、自分が信じたということを信じるしかない。(私の通俗かつ図式的なキリスト教イメージに偏った感じ方かもしれないけど)これはそういう、父に見捨てられ[てい]た世界で生きる息子としての私たちの話なのだと思った。道の途中で出会った老人、ずいぶん前に息子を失ったと語っていた老人は誰だったのか。もしかしたらあれが、間違って私たちとすれ違って終わってしまった父なる神だったのかもしれない。うっかり作り損ねたこの世界を悔やんで、この世界をこっそり見捨てた神。


 その老人役のロバート・デュヴァル、そしてガイ・ピアースですが、あまりに原形をとどめない姿で出てるので、そう思って一生懸命みても本人たちだと分かりません!特にガイ様!期待でワクワクして観てたのですが…なんだか病みやつれたトラヴォルタみたいに見えましたけど?しかし彼らが映画に一段と重みを与えていることは間違いありません。
 そしてそれよりももっと驚いたのは、エンドクレジットで音楽担当がニック・ケイヴだって知ったこと。渋い仕事やってるなー。さすが前から世界が終わりっぱなしのような歌ばかり作ってる人だと思った。そうそう、ヴィゴを観たかったはずなのに忘れてたわ(爆)。ヴィゴの「痛そう」で「裸」といえば『イースタン・プロミス』も、近いうちに母と一緒に観よう…