なにごともなかったような土曜日に

 前から予定していたお出かけだったけど、この大災害の翌日というより真っ最中に、(慎むとかそういう意味ではなく)自分がどういう気分になるか予測がつかない*1ので行こうかどうか少し迷った。けっきょく、やはりこういう時こそ何か強い表現に触れたい、というような気持ちになったので観に行きました。


 かつては先人の芸術作品のなかに自分が紛れこむていの創作を多く手がけていた森村が近年、実在の人物や歴史上のできごとそのものになりきるシリーズを作り続けている、その集大成の展覧会。いわば「アートについてのアート」のような、メタ的な作風だったのが、「あの人々」そのものを生きなおすような、一見するとベタな領域へ入りこんだ感がある(とはいっても、対象になっている人物には芸術家が多いので、別の見方をすればむしろ遠回りして作品へ近づくメタ的手法なのかもしれないけど)。20世紀を代表する人と事件を、自分の身体を使って評論する、その、なんだか身も蓋もない感じが生々しくて面白かった。森村が独特のかたちで振り返る《大量死と複製の時代》は、いま眼前にある大災害とメディアのありかたにももちろんつながっている。個人的には、中之島中央公会堂の、日本書紀に材を得たという「天地開闢」の天井画のしたで地球と戯れるチャップリンヒトラーが印象に残ったもののひとつ。その強い嫌悪感と、誘惑。

 この新作展のほかに、「森村泰昌の小宇宙」と題した小規模の展示が併催されている。個人コレクターから提供された貴重な初期作品の出展で、80〜90年代初頭のバブルな時代に雑誌掲載された記事などは、なんでもアリだった当時の雰囲気まで蘇って興味深い内容だった。

*1:東北から遠く離れた地にいる私にとって、金曜日の午後に感じた微かで異様な揺れ以外は直接知り得るものは何もなく、それが大災害であることすら自分ではわからない、メディアを通じてそう知ったに過ぎない出来事である。結果として自分のなかに生まれる不安や悲しみなどの気持ちすら、メディアによって生み出されたものだ。それを思うと、すべてが心もとなく信用ならない不確かなものに思えてくる。もしかしたら、災害そのものよりも、その不確かさが呼び起こす不安のほうが大きいのかもしれない。