- 作者: 橋本一径
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2010/10/23
- メディア: 単行本
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他でもないたった一人の人間であることを示す、身元確認の手段としての「指紋」が成立するまでの歴史を追いながら、「身元」とは何かをも問う書。
劇場や大型商業施設、また大型船舶や鉄道など、大量輸送を可能にする交通手段の誕生にともなって、「身元不明の大量死」というこれまでになかった事態も発生することになった。それまで、おもに故人を直接見知った家族や知人が遺体や遺品を視認することで成立していた身元確認に、もっと科学的・客観的な裏付けを必要とするようになったことで、のちに指紋が身元を証する手段として浮上する下地が用意された。
とはいえ、最初に指紋のシステマチックな利用が発想されたのは、犯罪捜査の場に於いてであり、罪を軽く見せようとして名を明かさない容疑者が、累犯者であるか否かを調べる方法としてであった。逆に、過去に逮捕され指紋を採取されたことのある者でなければ、照合するものもないので身元もわからない。しまいには、街をうろつく不良など犯罪者予備軍と思われる人間から予防的に指紋を採ることまで議論されたが、犯罪者以外からの指紋採取は激しい反対を受けて結局実施されることはほぼなかった(20世紀初頭のたとえばアルゼンチンなどにおいてすらそのように指紋採取の人権侵害性が認識されていたのに、この国ではもっと最近まで外国人に指紋を押捺させていたことを考えると、その野蛮さが改めて鮮明になる)。
それはともかく、他の誰とも完全に一致することなく、生涯にわたって変化することもない、ある人物の同一性<アイデンティティ>にきわめて緊密に結びついた指紋というしるしが身元特定の手段として定着することで、身元(の確認という手続き)は一気にパブリックな場所へと連れ出された。先に書いた通り、それまでは家族知人などごく私的なつながりのなかで「(顔を)見知っている」という親密な関係に於いてのみ保証され得た「身元」が、個人の身体を離れて、指先が触れた痕跡という、まるで外界に浮遊する断片ごときに裏打ちされるものへと変貌したのである。
では、それまで身元を示す拠りどころであったはずの「顔」は、どこへ行くのか。
顔写真がたしかに「その人」のものであるかどうかは極めて主観的にしか判断できないものであり、「身元」を示す手段としては曖昧なものでしかないのにもかかわらず、生体認証機能付きパスポートやIDカードなどにも依然として顔写真が添えられていることについて、著者はそれはむしろ身元を確認される「私」自身のためではないかという。なるほど、そこに顔写真がなければ、たとえ指紋や虹彩のデータがカードに組み込まれていたとしても、果たしてそれが本当にこの私(であるはずの身体)を指示しているものなのか私自身にすら判らない。私が知ることのできる私とは、じつはそれほど頼りないものでしかないのだ。ちょうど鏡に映った顔ではなく外から見た私の顔がどんななのか(私以外の皆からは見えるのに)私にだけは見えないように。私が私であることは、私ではない外の誰かが、もはや私の外にある何かによって判断する事柄なのだ。
例によって話は少し脱線するが、臓器移植の話題が出るたびに私は、“脳死”状態に陥った私の体の一部を欲しがる人が存在する可能性を考えるだけで「ふん、私のこと知りもしないくせに!」と、求められたわけでもないのに予め憤然としてしまうのだけど、指紋どころか血液型やリンパ球の型など、いわゆる臓器の適合性判断の指標となるような要素を、ふつう自分は知らない。「あなたのその臓器、とても都合が良いので、ください」と言ってくる誰かのほうが、じつは私よりも「私のことを知っている」という悪夢。この書物が描き出した「身元確認」の変容=「私」の流出は、そこへもつながっていると感じた。さいしょの章で取り扱われた「心霊写真」のエクトプラズムみたいに、指先から流れ出した「私」は、あずかり知らぬ痕跡、自分では見ることすらできない断片となって、もう手の届かないところまで漂って行ってしまったかもしれない。