予言者の死

小松左京自選恐怖小説集 霧が晴れた時』角川ホラー文庫読了。

霧が晴れた時 自選恐怖小説集 (角川ホラー文庫)

霧が晴れた時 自選恐怖小説集 (角川ホラー文庫)

 7月26日に小松左京氏が亡くなりました。追悼の気持ちで、積ん読になっていた一冊を読みました。


 タイトル通りの“恐怖小説”としては、これは既読だったけどやはり名作の「くだんのはは」、旧い神を扱って日本版クトゥルーの趣きもあるオーソドックスな「悪霊」、ぎっしり漏斗状に充満した死が真っ逆さまに押し寄せてくる「骨」などが怖くて楽しめた。フェッセンデンの宇宙を連想させる「蟻の園」の、眩暈がするような奇妙な気味悪さも、なかなか好みに合うものだった(恐怖小説というのとはちょっと違う感じだけど、じっさいに自分が見る「こわい夢」といえば、これが最も似ているのではないだろうか)。

 しかし、この1冊の趣向はそれとして、よりにもよって他ならぬこの2011年という年にこの国を、そしてこの地球を去ってしまった小松左京という人を思うと、やはり「召集令状」「影が重なる時」などの、いずれ来る破滅の時を知りながらそれを避け得ない絶望感、「骨」のラストで真実を悟った語り手の運命、どれも、ひょっとして小松左京は何十年も前から全てを知っていたんじゃないか?という、馬鹿げた妄想を抱かずには居られないのだった。

 もちろん、べつに『日本沈没』が今般の大震災とそれに続く原発事故を、正確に予見したものでもなんでもない、それは知っているのだけれど、それでも彼が見通していたなにかが成就してしまったという感覚がどうしても消えない。
 

 「くだんのはは」には、次のような一節がある:

くだんは歴史上の大凶事が始まる前兆として生まれ、凶事が終わると死ぬと言う。そしてその間、異変についての一切を予言するというのだ。

 半ばは悪趣味な冗談と承知のうえで言うのだけど、やはり小松左京自身が「くだん」だったという気がしてならない。
 小松左京が残した膨大な著作のほとんどを私は読んでいないし、ここに集められたSFあり伝奇ありの諸短篇も、幅広い彼の関心のほんの一端をあらわしたものに過ぎないだろう。しかし、彼がどれほど濃密で執拗な「死」のイメージをこれらの作品に込めていたかは、読む前の予想を越えていて少しショッキングだった。それはおそらく、若い時に経験した戦争の影響によるところが大きいのだろうが、めぐりあわせにより2011年の今これらをまとめて読むことになって、それがいっそう重苦しく迫って来るように思える。


 基本的には楽天家で、人類の未来を信じていたと言われる小松左京。おそらく他の作品を読めば、最後には希望が残る、と思えるのだろう。これから、未読の幾つかの作品を読むことで、彼が見通していた「希望」のほうの姿を見つけてみたいという気がした。



蛇足:「影が重なる時」に《この頃の列車にゃみんなATC装置(自動交通管制装置)がついているからいいようなもんの、》という一節があり、これは比較的最近書かれたものか…と思ったら、1963年と収録作中でも最も古い時期のものだったのでビックリ。他にも、現代性に驚かされる箇所はいくつかあったように思う。それがこの人だったんだなー。