居場所はなくなり、居ることだけが残って

小松左京『果しなき流れの果に』(ハルキ文庫)読了。

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)

果しなき流れの果に (ハルキ文庫)


 数年前に、図書館本で読みかけたものの挫折して、今回は再挑戦。

 冒頭にたたみかけるように登場する、恐竜時代の洞窟でなりひびく電話機とか、いつまでも落ちきらない砂時計とかの、鮮烈なガジェットに惹かれて読もうと思ったのだけど、だんだんそういうこまかな仕掛けはどうでもよくなる気宇壮大さ。私としては、もうちょっとその手の(オーパーツ的?)面白い「モノ」寄りのお話を期待していたので、やや意外だった。


 ほんのふとした偶然により地球まるごと突然滅亡の運命にさらされ、強制的に連れ出され、時空のあらゆる場所に再配置される人類の過酷な運命。はたしてどこまでの変転を経てなお人類は人類であり我々は我々であると言えるのか、この問いを、具体的で身近なあれこれに重ねて考えることもできるだろう。でも最後には、この小説に書かれたことはすべて既にはるか遠い昔に起こったことで、果てしない変転と繰り返しのすえに、いまのこの世界があるのかもしれない、というクラクラするような感覚に吸い込まれそうになる。私たちが眼の前に見ているのは、たぶん気が遠くなるほど向こうにある未来の結果なのだ。


 それはそうと、小松左京の小説に出てくる古くさい(というか昭和っぽい)女の人が、私はわりと好き。