まだいまから読もうとしてる本

 この本、じつは6月に京大人文研で合評会があった時に、当日買って読まずに参加という厚かましくも失礼な行動(それでもお話は十分面白かったんですけどね)をとってしまったもの。そのまま放置(<もっと失礼)してたんですが、もうすぐ同シリーズの別の本の合評会があって、性懲りもなくまたお邪魔しようか(そしてまたテクストは当日購入・読まずに聴講コース)と思っているので、それまでになんとか未読を減らそうという無茶な努力…という事情に加えて、やはり先日の《戦争×文学》のトークイベントをきっかけに伊藤計劃を読み始めようと思うのだけど、その前にどうせなら手近にある戦争関係で未読のこれ(ぐらいしかない)を読んでからのほうがいいんぢゃないの…と甚だ無根拠な考えで、やっと読み始めました。


 というわけなんですが、最初のほうで、三木清が晩年に第一次世界大戦当時を回想して書いている次の文章:

《私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。》

 を引いて、当時の一般的日本人にとって第一次世界大戦が、対岸の火事的な他人事であったというよりも更に

忘却するという以前に認識の空白ともいえる状況がある。/いや、そこには戦争にどう対処していいのか解らない戸惑いから、世界戦争について意識すること自体を消し去ろうとする心理が働いていたのかも知れない。

と分析してある。ここを読んだとたんに、昨日まで読んでいたクリストファー・プリーストの『魔法』が当然のこととして連想され、偶然つづいて読んだこれらの本になんだかつながりがあるような気が(むりやり)してきて、あーやっぱり今度こそ伊藤計劃が私を呼んでいるんだわ…と妙な確信を得てしまうのでした。

 そんなわけで、見えなくなっていた戦争を大胆に掴まえて見せてくださっているのであろうこの本から、しばらく戦争を見に行ってきます(それを言うならば、どんな本でも、見えなくなっていた何かを取り戻すために読む、それ以外の本があるでしょうか?)。