毎日が魔法使い

 先日読んだクリストファー・プリースト『魔法』ハヤカワ文庫版の解説で、法月綸太郎が原題"The glamour"についてこのように書いている。

glamourという言葉は現代英語では「〈妖しい〉魅力」や「華やかさ」という意味で使われているが、もともとの語義は「魔法」あるいは「呪文」であるという(したがって形容詞のglamorousにも、「魅力的な」とか「華やかな」という意味と同時に、「魔法をかけられた」ないし「魔力を備えた」というニュアンスが生じる。

 さらに渡部昇一の著作を引用しつつ、次のように続ける。

 この語は「文法」を意味するgrammer ― ラテン語で「文字の技術(アート・オブ・レターズ)」を表すgrammaticaが、フランス語を経由してこの形になった ― と同じ語源を持つとされている。識字率の低かった中世ヨーロッパでは、羊皮紙に記された文字をすらすら読める司祭や学者は、オカルトの知識に通じた人と見なされ、その結果、民衆の間では、文法を魔術と混同することが珍しくなかったからだ。grammerとglamourでは、似て非なる単語に見えるけれど、渡部氏によると、昔のイギリスや大陸でも、日本人の耳と同様に、r音とl音の混同があったという。 

 《イギリスや大陸でも…r音とl音の混同があった》という箇所を読んで「ほれ、見てみぃ!」と思うとともに、spellという言葉が「呪文」と「綴り」の両方の意味を持つのも同じような理由なのかな、と思った。

 

 ところで、伊藤計劃虐殺器官』を読んでいたら、チェコ語の個人教授をしている女性と語り手がこんな会話をする場面に出会った。

「(…)言語学の勉強をしていたの」
「へえ。じゃあ、ことばのプロというわけですね」
「いいえ、(…)わたしが勉強したのはもっと骨の部分ね。文法的(グラマー)な肉の部分じゃなく」
チョムスキーの話は確かに、肉感的(グラマー)とは言いがたいですからね」

 ここで会話しているのはいずれも日本人(日本語話者)ではなく、カタカナ英語の文字づらが似ているからといって「グラマーとグラマー」の語呂合わせは本来成立しないはずである。小説の世界のなかでだけ可能な“魔法”なのか、それとも彼らのあいだでも「r音とl音の混同」が起きているのだろうか。


 『魔法』の文庫化は2005年。『虐殺器官』が単行本の形で世に出たのは2007年だったそうなので、伊藤計劃がこの場面を書く前に法月綸太郎の解説を読んだ可能性はある。