生榎忠


 行ってきました『榎忠展』。
 たまたま都合のつく日が今日ぐらいしかなかったのですが、このまえ自分のエントリーに書いてたくせに、今日がイベントの日だということはすっかり忘れてました。



 

 子供たちと一緒に館内自作解説ツアーちゅうの「チュウ」さんに遭遇。皆さん、参加者証みたいなのを首から下げてたのですが、そんなもの持ってない私たちもチャッカリまぎれこみ(もちろん入場券は持ってました)、最後までついて行ってしまった。
 画像は、チュウさんの襟足のチュウ央に妙な剃り込みが入っているのを発見して、後ろ頭を狙ってシャッターを切ったのだけど、はずしてしまったところです。このあと、「半刈り」の展示の前でハンチングを取って頭を見せてくださる一幕もあったのですが(そこを上から撮ってる猛者もいた)、もう撮る勇気がなかったわ。壁に掛かっているのは、「AK-47」?だかの銃(をかたどった作品)をチュウ造するための、砂の鋳型。


 作家本人の説明によれば、空薬莢を大量に積み上げた作品、あれは実際にそういうものを回収して溶かして売る業者がいるそうで、詳しいことはナイショだけど沖縄に集められたものだとか。たぶん演習などで使ったのをあつめるのだろうけど、実際に人を殺傷したかはともかく、広い意味で人や物を害する目的以外では使われることのないモノ。それが煮溶かされ過去を消し去られ、ただの素材に戻る、「金属ロンダリング」の過程をあやういところで切り取り、明らかにしてみせたのが榎忠さんの作品だと思う。“それ”はたしかにここにあったのだ、ここで行われたのだ、と。あれだけの数が、誰か/何かに向けて放たれたのだと。ひきちぎられたような鉄骨や溶けかかったまま冷えた廃金属は、みな生と死の境目で苦悶しているようでもあり、すでに生まれ変わりつつある歓びに忍び笑っているようでもあった。


 整然と並んだ銃の一群、幾つもチカラと夢を盛り込んだような大砲型作品の数々、どれも兵器が放つ抗しがたい誘惑を鮮烈に感じさせ、それと向き合うことを要求するようだった。その一方で、神戸の旧生糸検査場で使われていたという幾つかの工作機械は、とても実在の機械とは思えないファンタジックな(たとえばクラフト・エヴィング商會の作品かと思うような)たたずまいで、奇妙に倒錯した感覚をおぼえた。
 本展のチラシやチケットの画像に使われている≪RPM-1200≫には圧倒された。まさに架空都市の出現、そこだけ別の時間が経過しつづけているような。でも、近づいてみれば、ひとつひとつは金属部品。ありえないものをあんなにクッキリと存在させてみせるエノチュウさんはやっぱり凄いと思いました。