失われていったいろいろなもの

 


 アメリカでもこの映画の頃がテレビの普及し始めだったのかしら、作中で、夫に先立たれ独りで過ごす時間が多くなったヒロインに、女友達がテレビを買えば?と薦める。ヒロインが嫌がると「どうして?“テレビは孤独な女の最後の友達”だから?」という場面があって、テレビ漬けの私はギャーと思った。

 『デス妻』のウィステリア通りを連想するような、ちょっと立派な郊外住宅のならぶ街路を、上空から教会の鐘楼ごしにとらえたシーンから映画が始まる。女主人公は、夫に先立たれ、息子や娘もよその町の大学へ進学していてたまにしか家には帰ってこない。(どこかの本作紹介文には「上流家庭」と書いてあったけど、まぁ中流の上という感じの)彼女の生活は、同じ社交クラブに属する友人知人との交際を中心に回っていたが、ある日ふとしたことから自宅の庭の手入れを頼んでいる庭師の青年と心を通わせ始め、しだいに親しさを深めていく。だが、属する「階層」が明らかに違うふたりの交際に、周囲の眼は冷たい。庭師が夫の生前から家に出入りしていたばかりに、彼女の「不貞」を噂する声まであがる。大学で心理学を学んで一見進歩的な言辞を口にしている娘すらも、母親の再婚の決断に、残酷なまでの拒絶を示す。


 映画は途中ハラハラさせながらも、けっきょく一応のハッピーエンドで終わるのだけど、それにしても、新しい関係を手に入れるために、それまでの人生の全てを捨てないといけないのはやっぱり女のほうだけなのね?!という憤懣(笑)は消しがたい。これだけ古い時代の映画なんだからしかたないとは思うけど。また、“上位階層”の者だけが変わることを強いられるというのも、それこそ(いくら庭師の青年がハイソな人々に馴染もうと努力しても受け容れられることがない以上)致し方ないんだけど、対等であるべき恋愛の帰結としては少々にがい気分。ロック・ハドソンの底が抜けたようにヌボーっと明るい若大将ぶりが、いっそうイライラ感を増幅させてくれる。
 あの後ふたりはどんな風に暮らすんだろう。ちゃんと添い遂げられるのかしら。タイトルは「たとえ世間が認めてくれなくても、お天道様は見ていてくださる」という積極的な意味にも思えるし、裏を返せば、この後も彼らを支え励ましてくれるのは神様だけで、他に誰も味方してくれる者はいないだろうという、悲観的な意味にも取れる。ヒロインが(ただヒロインの側だけが)大きな犠牲を払って得たのは、誰にも理解されない深い孤独かもしれない。夫に先立たれた女性に対する「世間」の偏見の激しさ、「階層」を侵犯したことへの懲罰の重さを描いて、この物語は『悲しみは空の彼方に』と同じく、差別のいまわしさを印象付けるものとなっている。


 作中で、ロック・ハドソンの友人知人たちとして登場する、ヒロインがこれまで知ることの無かったたぐいの人々(自然保護活動家や芸術家みたいなタイプの連中)が面白い。この映画が作られた50年代、まだヒッピーなどの登場する前のややアウトサイダーな人種というのはこう表象されるのかとちょっと感心した。また、キャロルを合唱する子供たちを載せた橇が住宅街を回っていき、大きなツリーが飾りつけられるクリスマスの場面にも、古き良きアメリカが感じられた。リーマンショック以後「中流」が滅びつつある、といわれる昨今のアメリカ、でも、この映画のヒロインたちを追い詰めたような閉鎖的で差別的な価値観に支えられて繁栄を謳歌した「中流」だとするなら、滅びてもしかたない。