このところ読んだ本・にほんじんの魂

 感想を書く(というかそもそもまとまった感想というものを抱くだけの)気力が、ひき続きすっかり失せてしまっていますが、読んだことすら忘れてしまわないうちに記録のみ。

柳田國男集 幽冥談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

柳田國男集 幽冥談―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

 有名な「遠野物語」じつはちゃんと読んだのは初めて。ほかにも古い日本に脈々と伝わる神や妖怪や異界の物語がどこに由来するのかを辿った文章の、幾つかはけっこう退屈でもあったなかで、印象に残った箇所があった。
 仏教がひろまり、死者の魂が遙か西方浄土へ渡るという思想が植え付けられる前には、亡くなった親しい人たちの霊魂はすぐそこの山を通して生者の世界と行き来していた。お盆には、人々は山に登り、あるいは谷川のそばや橋のたもとや、路の辻に立って死者の魂を迎え送りした。

 日本を囲繞したさまざまの民族でも、死ねば途方もなく遠い遠い処へ、旅立ってしまうという思想が、精粗幾通りもの形をもって、おおよそは行きわたっている。ひとりこういう中においてこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りもなくなつかしいことである。
 (…)魂になってもなお生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる。できるものならば、いつまでもこの国にいたい。そうして一つ文化のもう少し美しく開展し、一つの学問のもう少し世の中に寄与するようになることを、どこかささやかな丘の上からでも、見守っていたいものだと思う。 「魂の行くえ」より

 ここを読んだ時に私が思い出したのは、少し前に読んだ『3・11の未来 日本・SF・想像力』に寄せた小松左京の(おそらくその死の直前に書かれた)序文「3・11以降の未来へ」の締めくくりにおかれた
 《私は、まだ人間の知性と日本人の情念を信じたい。この困難をどのように解決していくのか、もう少し生きていて見届けたいと思っている。》

という一節、そしてそれに応答して書かれた「編集後記に代えて 小松左京哀悼」のなかの、

 《冥福を祈るのは、簡単である。/しかし、死が「冥」でないような可能性もまた、小松は『未来の思想』で書いているのだ。(…)いまや情報系の中に拡散していく小松左京の想い、(…)》
というくだりである。柳田國男の魂がいまもどこかから日本を見ているか、彼がのちの日本をどのように思い描いていたかはわからないが、少なくともここに何かは響き合っているという気持ちを私は味わった。