フランソワ・クープランで癒される午後

 フランソワ・クープランの27あるクラヴサン組曲を、10年がかりで全曲演奏するという、長大な企画の最終年。
 じつは毎年、気にはなっていた。数年前には「聴きに行こう!」と当日いきなり会場へ出かけてみたら、何と、よりによって光永さんの体調不良で中止になっていたという、私にとってはまことに間の悪いというか、ご縁のない演奏会だったのだ。


 今回、いよいよ最終回ということで、やや風邪ぎみのところを押して参加。「居眠りしちゃってもいいや」と開き直り、目を閉じてゆーらゆら、どこまでも続く装飾音にふちどられてさまざまな音色が繰りひろげられるのを聴くともなく(笑)聴いていると、なんだか身も心も柔らかく休まるようで、(たぶんクープランの時代にはその音楽は「癒し」というよりは「慰み」だったのではと思うけど)とてもいい気分だった。
 途中、メロディーの上のほうに、男性の声で一緒にハミングしているような音が聞こえる気がして面白いな、と思っていたら、後で奏者自身が解説したところによると、クラヴサンチェンバロ)にはボタンひとつでそういう倍音?を出す機構があるのだそうだ。考えてみたら、合奏の一員としてのチェンバロを聴く機会は何度かあったけれど、独奏をライヴで1時間以上じっくり聴き続けたことはこれまで無かったかも。改めて、チェンバロの音色についてもっと知りたい気がした。


 光永さんは、むかし中野振一郎の演奏会で「神秘なバリケード」を聴いたのが忘れられず、クープランの魅力にハマるきっかけになったそうだ。パンフレットでそれを読んで、もしかして…と期待していたところ、やはりアンコールで「神秘なバリケード」を弾いてくれた。これもまた、和音全体が水に浸ったまま揺れ動いているような、なんとも不思議な音色に感じられた。
 「神秘なバリケード」といえば、E・R・エディスンの小説『ウロボロス』の冒頭部分で、レシンガムという男の屋敷で娘がスピネット(=小型のチェンバロ)で奏でているのが聞こえてくる曲だ。これを読んで以来*1、私の耳はまだ聴かぬ"Les Baricades Misterieuses"に憧れ続けてきたのかもしれない。いま、曲だけをきいてみれば、べつだん「神秘的」な曲とも思えず、他愛ない音楽にも聞こえるのだが、この魅惑的な曲名は一度きいたら忘れられない。クープラン組曲は全部そうかもしれないが。

ウロボロス (創元推理文庫)

ウロボロス (創元推理文庫)

 暖かな雰囲気のうちに演奏会が終わり、びわ湖ホールの裏手へ出て湖面を眺めてみた。少し曇り始めた空と、水と、遠くの山なみが少しずつ違う青をうつし合う景色は、先ほど聴いた「神秘なバリケード」の揺れ動く不思議な音色そのもののようで、ここの会場はもちろん大規模なオペラに相応しい舞台だけど、こういう繊細で優しい音楽をたのしむのにもぴったりの、素敵なホールだなと感じた。

*1:というよりも、さらに昔、荒俣宏が『別世界通信』でこの部分を紹介していたのではなかったか?