私を手放さないためには…

  • 粥川準二『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』

バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体

 本書では、バイオ医療の進展にともなう社会および人間の変容を「バイオ化(生物学化)」と呼ぶ。

 この本の柱である〈バイオ化〉という概念は、実をいうと私にはちょっと広角すぎて意味がつかみ切れてない感じもあるのだが、少なくとも、人間に対するいろんな〈切断〉が含まれていると考えて、そう間違ってないと思う。
 生きるにせよ死ぬにせよ、丸ごとそうする存在でしかあり得なかった人間が、際限ないほど細部を調べ尽くせるようになり、部分的に修正したり交換したりできるようになった結果、「物」として切り取られるだけでなく、社会の中の存在としても、(自分でも知らないうちに)誰かの基準で切り捨てられたり、都合良く切りとられたりする傾向は、たしかに強まっていると感じる。「あなた全体には興味ないけど、あなた、きれいな良い臓器してますね。置いてく?」と言われるとき、〈私〉の〈切断=バイオ化〉がされているんじゃないのか。

 生殖補助医療・遺伝子医療・幹細胞科学・うつ病・痛み・そして原発と、さまざまなテーマにわたって現在浮かびあがっている問題が取り上げられていて、たいていの人はこのうち幾つか関心があるだろうし、私のような「ニュースや新聞ではちょろっとは見たけどよく知らなかったわー」という者には知識の補強にもなる読みやすい本書。ちゃんとした紹介や書評はよそで探していただくとして、私は例によって本筋から逸脱して印象に残った箇所を小ネタ的に〜と言いつつ長々と〜


 第4章「信頼のバイオ化 マインド・リーディング」で、fMRIによる脳スキャンを使った“嘘発見”というトピックが紹介されている。実際にアメリカで、犯罪の嫌疑をかけられた男性が、潔白を証明する為に1500ドルの対価を支払い、「ノー・ライMRI」なる企業の提供している脳スキャンを受けたという。ポリグラフよりも信頼度が高いというこのテスト*1は、「真実」を話している時と「嘘」をついている時の脳内血流の違いを検出するそうである。
 本書では、そのように外部から測定装置で人が「考えていること」を読み取ってしまうことの倫理的な問題、そしてこの種の技術が精度を高め、つねに「真実」が明らかにできるとなれば、かえって言葉への信頼が失われるのではないかという問いかけがされている*2

 しかしそれ以前に私がひっかかったのは、この方法の実効性を証明する実験手順として

一枚のトランプ札を見せ、一連の質問について「NO」と答えるよう指示

とか

私は実験室の引き出しから指輪か時計かどちらかを盗むよういわれ、次に、fMRI装置に入り、私が盗んだものについて嘘をつくよういわれた。

と書かれているところである。
 先に紹介されていた、実際に犯罪の疑いを掛けられてスキャンを受けた男性も、おそらくこれに類した方法で「嘘をついている時の脳」の状態を記録されたうえで、本題である事件に関する返答との比較対照をされたのだろうが、そのような切実な状態に置かれた人の「嘘/真実」に、果たしてそんな(気楽な実験時と同じように)きれいな差異が出るのかという疑問がまずひとつ。そして、仮に彼が犯罪の事実を隠す為に嘘をついていた場合、自分を守ろうと(もしかしたら、これが「真実」であって欲しかったと激しく願望しつつ)必死でついている「嘘」と、「ハイ、じゃ今から嘘ついてくださーい」と言われるままに読み上げた「嘘」とが、脳内で同じような血流地図を描くのだろうか?という疑問が私には湧いてきた。その「嘘」とこの「嘘」は、外形的には同じかもしれないが、人の心の中においては全く違うもののはずである。
 もちろんこれらの実験を行った科学者は、その結果から「ふだん実際に人がついているいわば“マジ本気な嘘”まで検出できます」とは主張していないだろう。しかし、どこかの段階でいつの間にか、その違いに気づかないというよりも、あえて意図的に無視・混同する者がやって来る(というか、「ノー・ライMRI」社のような存在は既にそうかも)。「心を読み取ることの是非」よりも前に、そもそも「心」でないものを「これがお前の心だよ」と言われる、それこそが要警戒だろう。同章で引用されている美馬達哉氏の《…そこで脳内現象として視覚化されているのは、心的なできごととたんに相関性をもった脳活動に過ぎない》というコメントはもっともだと思った。


 いっぽうで、このような脳内スキャンや遺伝子検査がビジネスとして成立(してるのか?)する事実がある。もちろん、上記のように身の証をたてる必要に迫られた人、親子関係の証明や遺伝病の確率を知りたいなど非常に切実なニーズによりそれらを利用する人も多いのだろうが、実際にはもっと気軽な「ちょっと調べてみたい」という利用もこれらの商売を支えているのではないか。手相や占いの科学的かつ発展型のような求められかたで。そこに「私を〜で説明して欲しい」「読み取られたい、全スキャンされたい」のような欲求がけっこう強く働いているような気がしてしまうのだが妄想かしら。
 ちょっと前に読んだ森岡正博『生者と死者をつなぐ』のなかで印象に残った、「家畜」のような生にむしろあこがれているかのような現代人の姿と同じように、どこか「バイオ化」されることを望んでしまっている〈私〉もいるのかもしれない、という気がした。

*1:ただし法廷で証拠採用されたことは未だ無いとのこと

*2:特に後者の指摘は、たとえば《携帯電話が普及したことで(どうせすぐに連絡が取れるからと)待ち合わせ・約束を守らないで平気な人が増えた》といわれる現象を連想して興味深いし、あんがいそういう事態は早くやってくるのかも…と思う。