誰もが書いている

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』読了。

屍者の帝国

屍者の帝国

 最初にこの黒々とした一冊を手に持ったとき、そのずっしりしたヴォリュウム感に、「あー、伊藤計劃さんが、死んだけど生きている、死んで生きている、ってこういうことなんやな」と、意味不明な説得力と迫力を感じた。円城さんはたいそう苦しい思いをしつつこれを書き継いだのだろうと思うけど、最後は書き終わりたくないという気持ちでいっぱいだったのではないだろうか。

 物語の結末に至って、ある意外な人物(?)がそれを「書き継いで」いる場面は、誰でもなく誰でもあるような半透明な存在が、いつ誰によってインストールされたのかも定かではない「言葉」をこそ自分の言葉として書き始める、心もとなさと愉悦のようなものに充たされている。私たちの誰も、いつどうやってどこから自分が言葉を得たのかを、ほんとは知らない。知らないまま、それを自分の言葉として生きる。あの場面で書いているのは、《わたし》であり《あなた》でもある。


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 お話そのものとしては、私の好みからするとやや“活劇”要素が多めで、(『ディミター』みたいにしみじみ不思議で静かな小説を読んだあとではなおさら)騒々しい感じがしたのだけれど、サービス満点とも言える。いまワトソンと言われるとどうしてもマーティン・フリーマンを思い浮かべてしまうのだけど、さすがに本作のワトソンには全然似合わないので、せめてジュード・ロウに書き換えようと脳内努力しつつ読んだ。


 金森修の『ゴーレムの生命論』にも、人間とゴーレムを分けるのはたいていの場合「言葉を話せるか」という点だと書いてあったが、世界が「死を上書きされた生者」の群れに覆われようとする時、それに抗するには言葉の力によるしかない。きょうの世界に立ち、きのう伊藤計劃が《誰かに》手渡していったものを眺めて、改めてそのことを思う。