分かっちゃいるけどやむを得ない。

石井洋二郎『告白的読書論』(中公文庫)読了。

告白的読書論 (中公文庫)

告白的読書論 (中公文庫)


 幼年時代から始まって、著者自身の読書来歴をたどるオーソドックスな感じの読書エッセイ。対象となっている書物も、少年向き江戸川乱歩シリーズから始まって、名作・大作・ちょっと背伸びして挑戦する難解作・問題作と、たぶんとってもオーソドックス。…と感じると同時に、自分は如何にこういうマトモな読書プロセスを踏みはずし切った人生だったのかと痛感するのであった*1

 なかでもグサッとくるのは「十代の読書」と題された項の、以下のごとき一節:

(…)年を経てつくづく思うのは、熱病に冒されたように長大な書物に没入することができる時期は、案外かぎられているということである。世界文学全集に収録されているような大作を読み通すというのは、よほどまとまった閑暇がないとできることではない。(…)しかしいっぽう、いくら時間があっても、小学生ではふつうこうした作品を読みこなすだけの知力や体力がまだそなわっていない。となると、「長編小説適齢期」は中学、高校、大学を通して、せいぜい十年間。(…)
 もちろん、定年後に一念発起して、若い時に読めなかった大作に挑んでみる人も少なくない。じっさいわたしの知り合いにも、六十歳を過ぎてからプルーストの『失われた時を求めて』に挑戦している人がいる(それも複数)。これはこれですばらしいことだと思うが、歳をとってからの読書は、けっして若い時の読書と同じではない。十代で読むプルーストは、六十代で読むプルーストとはちがうのである。あたりまえのことだが、ある年齢で読んだ書物はその時にしかそのように読めないのであって、時を経てから同じようにもう一度読むことはできない。

 


 アァー分かりましたよくわかったからもうそれ以上言わないでーーと叫びたくなりました。確かに、読んでも読んでも進まない『失/時』(うしとき。勝手に略してスマヌ)。いま実感しています。ただし私の場合は二十代で初挑戦した時も延々進まない感があったので仕方ないのですが。まさに失われた時は戻らない、しかしいま現に読んでみて、たとえこれを背伸びして十代の頃の私が読んだとしても、たとえば「スワンの恋」に出てくるフェルメールの絵画作品だってほとんど知らなかっただろうし、描写される服装や音楽からあの時代の何かを思い描くだけの材料をどれほど自分の中に持っていただろう、そしてこの作品のなかに不思議な形で配置された数十年の歳月というものの拡がりをどれほど想像できただろう? と考えると、少なくとも私にかぎって言えば、五十歳はやや遅すぎたかもしれないけれど、二十代で読んでも未だまだ力量不足だったという気がする。それを比べることは、著者の言うとおり、もはや不可能なのだけど。


 ここで取り上げられている書物の多くは、私にとって未読でありおそらく今後も読むことのないものであり読むべき時機を永遠に失してしまったものである。ドストエフスキーは十代にこそ読むべき、という巷説はおそらく正しいのだろう。いまそれを読んでも絶対に自分が熱狂しないことは分かっている。しかしプルーストに関しても感じたように、けっきょく「私がそれを読む時に私がそれを読むようにしか私はそれを読めない」のであり、そういう一種のさわやかな諦めの境地(?)というかポジティブな開き直りの姿勢へ誘われるという、ふしぎな読後感を与えてくれるのがこの読書論なのである。だから、今日も明日もひき続き私は読むでしょう、この本には出てこなかった、私に用意されたあれやこれやを。とはいえ、最後に置かれた北杜夫『幽霊』の紹介はひどく感動的で、これはいつか必ず《再読》しなければと目を潤ませて心に誓ったのであった。

*1:それも質的のみならず量的にも、自分が本好きな子供〜若者だったというのはひょっとして単なる虚偽記憶なんじゃないかと疑いつつある今日このごろ。いったい自分は何を読んでたのか。いや、そもそもほんとに読んだのか