昨日も今日も明日も、それは我が身


 あー、これは怖い。ところどころにすすり泣きの気配がするほかザワっともしない客席には、おそらく全員の「お願いもうやめてー、誰か何とかしてー」という祈り(?)が充満して、空気が硬直したみたいになっていた。


 映画の最初のほうで、主人公ルーカスを囲む仲間達の日常がスケッチされる。遊びや狩猟のあとに家に集まって他愛なく飲んで歌って騒ぐ様子はまるで『ホビット』に出てくるドワーフの宴会そのものである*1。同じ町で一緒に遊び育ち、いまも暮らす仲間の濃密な人間関係(そこにプラス、各自が銃を所持し狩猟の伝統があるという男性的文化)は、いったん何かが起きると今度は徹底した村八分・リンチの装置へ容易に転化していく、その様子を、美しい自然の風景と音楽とともに淡々と描き出すのがこの映画である。


 幼稚園教諭を勤める中年男性ルーカスは、ふとした行き違いから園児に対する性的虐待の嫌疑をかけられる。女性の園長は「あの子は想像力が豊かだから…」といいつつも子供の言い分のどこまでが事実なのか慎重に吟味することなく、ルーカスを追い詰めていく動きに加担してしまう。 


 ここで恐ろしいのは、いったん子供に対して“誘導尋問”のようなことが行われてしまうと、もはや「白紙の状態に戻して最初からもう一度」は不可能になってしまうことだ。子供の記憶だけではなく、ルーカスに対する周りの視線も、共同体を包んでいた何げない日常の心性も、全てが何かを失ってしまう。その、無垢が決定的に喪失される瞬間を象徴するのが、ルーカスが飼い犬ファニーを埋める場面だったと思う。あそこで彼は、力で取り戻せるものを取り戻す以外に、なにかが元に戻ることはもう決してないと心にきめたように見える。物語の結末で、彼らが元の生活の幾ばくかを回復したことが示される(おそらくはぎこちない努力と共に…いったいあの後、どのような和解のプロセスがあったのか具体的には描かれていない、そこもまたある意味で怖い)が、あの通り、ルーカスが負わされた傷が癒えることはない。


 パンフレットの解説文によると、実際にデンマーク国内で十数年前に男性幼稚園教諭による園児に対する性的虐待事件が起き大問題になったことがあるそうだ。そのリアルな記憶とともにこの映画のシチュエーションに身をおいた者のうちどれほどが、「子供の話は全くの事実ではないかもしれない、ルーカスは無実かもしれない」という方向へ冷静に視点を移動させることができるだろう? また実際、まず子供の話を信じてやらなければ、多くの(子供や弱者に対する)犯罪は闇に葬られてしまう恐れが大きい。ただ、その話の中身が客観的事実そのものであるかどうかは別というだけである。子供は意図的に嘘をつくこともあるし、無意識にあるいは深い考えなしに作り話をすることもある。この、迅速さが求められしかもやり直しがきかない重大な瞬間に、どうすれば冷静さと公平さを確保できるのか。「大人が子供に話をさせる、話を聞く」ということの重さがもっともっと認識されなければならないと改めて痛感した*2。《この映画では、子供は悪魔だといえる。ひとりの男の人生を破壊するのだから。しかし僕は、このような事件では子供は犠牲者でもあると強調することが非常に重要だと思った》と監督はコメントしている。
 私自身は「想像力の豊かな子供」ではなかったつもりだけど、もしかしたら子供時代に大人に対しておおきな罪を犯してしまったことがあるかもしれない、自分もクララだったかもしれない、記憶にないだけで…と振り返った元子供もたくさんいるのではないか。ほんとはぜんぜん意味が違うのだろうが、ただもう可愛らしいクララの無邪気な笑顔を見て、《原罪》とはこういうことを言うのかもしれないという気がふとした。


 同じく監督のコメント:《マッツは、美しい容姿と筋肉を持つ、とても男らしい男だが、僕たちはそのイメージを裏返して慎ましい教師にすることにした。》そう、この映画のマッツは渋いです。抑えに抑えた末、あのクリスマスの教会のシーンで命懸けのように怒りをぶつける場面がだからこそ活きる。子役クララ、ルーカスの息子マルクスも素晴らしかった。

*1:なにしろ男たちの大半がドワーフふうの髭マッチョで、あっさり淡泊な風貌のルーカスがむしろちょっと異色なのである

*2:昨今、学校や子供周辺でなにか事件があるとすぐに“心のケア”と称してスクールカウンセラーが呼ばれてetc…という風潮に私が嫌悪を感じるのもそのせいである