No Music, No Life,...indeed


 ツイッターのほうにもしつこく書いたのですが、元をただせばちょうど一年前の夢 ↓ がきっかけで:



 ことし元旦の朝刊でこの公演の予告*1を見た瞬間に、「これを聴きに行けということね?!」と独り合点したという経緯がありました。


 チケットを入手した時点では予想していなかった変化の後、先月亡くなった父の遺影をiPhoneに収めてこの演奏会を聴きに出かけました。半年前に新装オープンしたフェスティバル・ホール、たぶん若い頃から何度も通ったはずの*2父ですが、この新しい姿はたぶん未見のままだったと思います。「予想していなかった」とはいうものの、この1年ほどのあいだ、私としては不似合いなほどあちこちの展覧会や演奏会へ積極的に出かけて、自分でもちょっと可笑しいなと思いながら、なんとなく止められない何かに動かされているような感じだったのは、ある種の〈準備〉だったのかもしれません。

 ゆうべ思ったのは、ふだんは雑事にまぎれて忘れて暮らしていられても、やっぱり音楽や美術や文学がないと、人間らしいままぜんぶの日々を通り抜けることは難しいんじゃないかな、ということです。ゆうべ聴いたのは、素晴らしく美しい音楽、信じられないほど丹精された技と強い意志とが人々の手と耳のあいだで交流する時うまれる形容しがたい何か。ゆうべそれを聴かなかったとしても、今日も明日も、私はべつに不都合なく暮らし続けていたでしょう。でも、たとえ自分が聴かない他の場所でであっても、どこかでそれが鳴っていることを知っているからこそなのではないかしら。どこかにそれが確かにあることを信じられなくなったときは…

 ゆうべ思ったのは、それにしても、「この自分が」いまこれを聴く必要があったのかといえば、よくわからない、そういうことでした。豚に真珠。でも、そういうものが必ずどこかで鳴っていることを信じるためには、ときどき自分の眼で耳で、確かめにいかないといけない、ただそういうことなのかも。


 **はじめて生で聴く樫本さんの演奏は、空気中に銀糸の刺繍が湧き出すみたいな自在さと美しさ。その繊細なプロコフィエフと、辺り一帯がひっくり返されたような衝撃の『春の祭典』のコントラストにも酔いました。それとサー・サイモン・ラトルは、やっぱりイアン・ホルムのビルボに似てきたねー**

*1:曲目も未定、ただ日時と演奏者だけが決まっていた

*2:ただしクラシック音楽はそれほど愛好家でもなく、バレエ・新劇・歌舞伎・落語なんかが好きな人だった