わたしは むしのきらいな おんな

奥泉光『虫樹音楽集』読了。


虫樹音楽集

虫樹音楽集


 カフカの『変身』、なかでも印象的なひとつのシーンを軸に、さまざまな物語が語られる連作集(と言ってしまえるかどうか)。
 「その言葉を」の系譜に連なるともいえる“演奏を止めた演奏家”の物語、伊藤計劃の影響も?と思しい近未来SF的物語、偽エッセイや偽科学史(これは石黒達昌をちょっと連想)、中欧のどこかの街を舞台に不吉かつ幻想的に展開する「変身の書架」は書店ファンタジーでもある。いろんなスタイルが盛り込まれていて、読者は予想したよりも右往左往させられる。また、『神器』そして「クワコー」でお馴染みの、軽薄なイマドキ若者言葉でしゃべりまくるあのキャラはここにも出てくる。さらにここから、また幾つも作品が派生していきそうな気もする。


 ある作品内の設定が「あれは事実ではなく…」と別の作品で明かされ、しかしその作品も結局エッセイを模した虚構で、…という、剥いても剥いてもウソな構造が一冊のなかにはめ込まれている。読むにつれ出来上がっていくイメージは、何層にも貼り重ねられ、あちこちが異なる深さの層まで剥がされては修復され、いったんは滑らかな表面に見えるものの結局どこまでが事実なのか怪しい堆積物である。作中に出てくる、何枚も重ね貼りされたライブ告知チラシが象徴的である(何かを剥ぎ取ったからといって、下から現れるのが真実とは限らない)。


 幻想的な主調音を持つこの一冊のなかで、消えたミュージシャンの空白の’80年代が、旧ユーゴと思しき国の老詩人が語る《死者を忘れることでしか、つくれない国》という言葉と重なるとき、消された記憶の向こうから現実的な暴力の気配が立ち上がる。記憶に空白が生じるとき、そこには消されなければならなかった何かがきっとあるのだ。おそらく、(「虫樹譚」に出てくるPIB法が象徴するような)どの一線を越えれば人間は人間でなくなるのかという問いに、(歴史への)記憶と忘却も、関わっている。

 
 「Metamorphosis」に出てくる、“出講していなかったらしい非常勤講師”のエピソード、「『川辺のザムザ』再説」に出てくる、“映像に映っていなかった(或いは映り込んでいた)男“のエピソードなど、記憶の不確かさ、見たと思ったものの頼りなさは絶えず繰り返されるのだが、面白いのは、聴いた音楽を疑う場面が無かったこと(背景に入っていたはずの水音は記憶違いか…という箇所はあったけど)。テナーサックスの《ただ長く引き延ばされる》《ビブラートをかけない棒状の音》はそれほどに強靭なものなのか。
 作中、人間の持つ〈言葉〉(=言語ではない。この辺りで先日読んだ『井筒俊彦』本を思い出してあーっと思った次第)のうち最も〈宇宙語〉に近いのが音楽であるという記述が出てくる。そんな音楽を、自分も聴いてみたい。しかしそれを聴くときには、すでに虫になっていなければならないのだろうか。
 虫に変身しつつあるザムザがだんだん人間としての視覚を失っていき、馴染みの景色すら見分けられなくなる、という描写が何度も引用されるのだが、おそらく聴覚はむしろ研ぎ澄まされたのだろう。ザムザは何を聴いていたのだろうか。