“そういった派”の起源(トンデモ)

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)


 登場人物がめそめそと悲しんでいる(わけではないのかもしれない)場面が続くこんな本を読みながら順番待ちをしていたので、よけいに阿修羅像の顔が悲しそうに見えたのかもしれませんが、思いがけない発見もありました。



 画像は、たまたま見開きのなかに2回「そういった」が出ているので例として撮りましたが、ほかにも頻出。『風の歌を‥』のほうにも一度ならず出ていたと思います。どちらも数えてはいません。私が気にしているから、多いように感じただけかもしれません。


 前にも書いた気がしますが、私にとっては「そういう」「そんな」「そのような」と言う(書く)ほうがスッキリして抵抗を感じない箇所で、「そういった」を連発する人が最近増えているような気がします。(これもあくまで印象。)見かけるたびに、「なんで過去形?」とイライラしますが、あれほど指摘された「よろしかったでしょうか?」と違って、あまり気にする人もいないようです。
 作家の選んだ言葉に文句をつけるわけにはいかないけれど、彼が繰り返し書き込んだ「そういった」が、何百万何千万回読まれることで、同世代以下の言葉づかいにある程度影響をおよぼしたと想像してみても、丸っきりの的外れではないだろうと思います。


 それにしても、私はこの作家の小説はほとんど読んでいないものの、村上朝日堂シリーズや紀行もの、『やがて哀しき外国語』などエッセイ類はけっこう読んだことがあるのに、この点にひっかかったおぼえはありません。文体が違っているのか、読むこちらの感じ方が何年かのあいだに変わってしまっただけなのか。ちょっと気にはなりますが、既読本の再読はたぶんしないし、小説も(必須と思われるあと数作を除いて)おそらく読まずに済ませてしまうと思うので、この疑問が解明されることはないでしょう。他の小説にも「そういった」「そういった」書いてあるのかなぁ。だとしたらユーウツ。