犬の命日にバナナパウンド(ホットケーキミックス版)
去年に続き、6月30日の犬の命日を直前に思い出すことができたので、お菓子を焼きました。やる気も、材料を揃える機会も乏しいため、
「そうだ、最近はホットケーキミックスを使ったお菓子を良く見かけるから、そういうので何かいいのがないかな?」
と思って探したら、ちょうどよいレシピが見つかりました。
分量も作りやすく簡単にしてあって、助かりました。
表面がちょっと焦げたうえに、ケーキが膨れた際にトッピングにしたバナナが傾斜を雪崩れ落ちた(笑)ので、サイトの完成写真のように美しくは出来上がりませんでしたが、味のほうはバナナの風味が濃厚で、予想以上に美味しくできて大満足。家族で楽しく食べました。
これも犬が積んでくれた功徳のおかげですね。
参考にしたレシピはこちら↓
oceans-nadia.com
来年も何か作れますように…
掛軸の箱に貼ってあるアレ
掛軸の箱に貼ってある札というか題箋というか。正式名称は何というのだろう。
今でもネットで検索すると「掛軸用見出しラベル」「箱用シール」「掛軸収納箱用 画題シール」などの名称でシール状のものが販売されているが、どれも同じ商品に見える(第一、そんなに何種類も作られているものでもないだろう)。
ここに写っているラベルも印刷された既製品だと思うけれど、「◻︎◻︎先生」と初めから敬称が入っているところが何かいじらしい。先にあげた、現在あちこちで販売されているシールでは「筆者」と書かれているだけで敬称までは付いてない。この「〜先生」は誰から見た敬称なのだろう(書画を納品する美術商からなのか、それとも所蔵する人からなのか)。作者当人が作品を箱におさめてラベルを貼って誰かに渡す、というシチュエーションはあまり想定されていないようだ。
犬の命日にマフィン(甘栗メープル)
ブログの書き方もすっかり忘れてしまっている*1昨今ですが、さいわい今年は犬の命日を直前に思い出すことができ、お供え菓子*2として久しぶりにマフィンを焼きましたので載せておきます。
生地がわりと硬めで、均等に平らに流し入れるのが難しくて不恰好になりましたが、焼き上がりは心配したよりもキメも揃い、しっとりふんわりしていて美味しかったです。
もう遙か遠くなってしまった犬の思い出に、毎年同じようにゴメンネと詫びながら食べる、繰り返しです。
参考にした森岡梨さんの『A.R.Iのお菓子の提案―dailyマフィンとビスケット』
2005年初版、私の持っているのが2008年刊の第10版なので、かなり人気のあった本ですね。
- たぶん最後にここに載せたマフィン。13年前ェェ?
パイナップルと黒糖のマフィン - ニゲラ嬢の雑記帖 la suite
- そのさらに1年前に載せたマフィン。それ以前のマフィン関連記事のリスト付き(笑)
フルーツ入り甘いマフィン2種 - ニゲラ嬢の雑記帖 la suite
- 「犬の命日」のお菓子記事はこれが最後だったけど、ブログを書かなかっただけでお菓子そのものはそれ以後も作ったことあるはず。
犬の命日に「抹茶ぶちパウンド」 - ニゲラ嬢の雑記帖 la suite
『失われた時を求めて』読了
「今年こそ」とエラそうに宣言していたのがもう 昨年の お正月。
明けましておめでとうございます。私も今年こそ『失時』完読を目指します。よろしくお願いします🤝
— ニゲラ嬢 (@nigellanoire) 2020年12月31日
遅れに遅れてついに完読した。
思い起こせば(←起こさない。ブログって助かりますね)今回のちくま文庫版を揃えて読み始めたのが丸9年前。だったらしい。
nigellanoire.hatenablog.com
↑ここにも書いているように、ほんとは大学時代に読んでいるべきだったものを中年過ぎるまで怠惰に先送りし続け、やっと思い立ってみせたものの、たびたび長い中断をはさんで、またも挫折するのか…と思いかけた時期もありつつ、何とかヨレヨレでゴールイン。正直いって最初のほうにどんなことが書いてあったのかもう朦朧としているが…
「(若かった頃に)読んでいるべきだった」と書いたが、そして基本的にはそれが本心ではあるけれど、この大作のさいごに病身の語り手が、周囲の人々も自らもすっかり年老いたことを痛感し、残された時間はあるのか?と自問しつつも執筆に向かう意志を記すところを読んでいると、もしかしたらこの結末に自分がいまたどり着いたことにもそれはそれで意味があったのかもしれないと思った。
他にも未読本が山ほど積み上がっていることでもあり、同じ作品(しかも超長い)を再読するというある種の "贅沢" をする余裕がこれからの自分にはあまり望めそうにないが、もしも可能であれば、岩波文庫の吉川一義訳で、もう一度さいしょから読み通し直してみたい。たぶん全く初めて読むような気持ちしかしないだろう。そして目の前に淡い水色と杏色がかった春の午後みたいな空間がただ広がっているなかへ知らない一歩を踏み出すような気分がするにちがいない。まるで若者みたいに。味わってみたいものです。
額装できたので飾ってみました(I Shall Wear Purple)
夏に完成したステッチ、その後ほとんど間を置かずに額装も済ませていたのだが、あいかわらず怠け者が治らず、ここにアップしていなかった。飾る場所も一応考えはしたものの、ぐずぐずしていて周囲の片付けや金具の設置もできておらず。そうこうするうちになんとお正月。というわけで、せっかくの縁起物っぽい図案なので、仮置きながらお正月期間だけ飾ってみることにした。
右は母の作品で、毎冬の定番。
全体図
細部それぞれ。額屋さんが幾つか出してきてくれたなかの棹材はイメージにぴったり、ちょっと豪華だけど大げさでなく古雅な感じで、ステッチの格も👆上がろう☝️というもの。
展示全景(笑)。この額以外の3点は母の作品
私にとってはこんなに本格的な額縁にステッチ作品を入れてもらうのは↓8年ぶり↓で、たぶんもう今回が最後であろう……
もちろんまだまだ買い溜めた貯めた図案やキットは大小とり混ぜて山ほどあるのだけど、ハテ生きているあいだにどれほど手がけられるやら。
ペギーダ PEGIDA と「夕べの国」(『新たな極右主義の諸側面』メモ)
年末に、新刊書『新たな極右主義の諸側面』を読了。
- 作者:テーオドル・アドルノ
- 発売日: 2020/12/13
- メディア: 単行本
全体が約120ページの小さな書物のうち、本文は60ページほどで、詳しいあとがき(1972年生れのドイツの歴史家フォルカー・ヴァイスによるものと、日本語訳者である橋本紘樹*1によるものの2つ)が付いている。アドルノが1967年に行った講演記録が、いまになって文字に起こされて書籍化された経緯を含めて、現在の状況につなげる意味でもちょっと解説が必要だったということだと思う。
そのあとがきの中で、近年のドイツでの右傾化の代表例として2014年に発足した反イスラーム運動PEGIDAの名前が挙げられている。PEGIDAとは、Patriotische Europäer gegen die Islamisierung des Abendlandes というドイツ語の頭文字をとったものだという。
西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者 - Wikipedia
そして、その運動名というか活動名の日本語訳としては、上記リンク先のWikipediaページにあるように、「西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者」などとするのが一般的であるらしい。
いっぽう、本書の2つのあとがきでは、このPEGIDAに対する訳語が「夕べの国のイスラーム化に反対する愛国的ヨーロッパ人」とされている。さいしょこの訳語だけをみたとき、ドイツ語を解さない私は「ゆうべ? 何かの間違いかしら」とすら思ったのだが、調べてみてAbendlandes(オリエントに対するオクシデント=西洋、日の沈むところの意)という単語を分解して字義のまま直訳?するとそういう意味になるのかなと推測はした。しかしそれにしてもなぜ、一般的な訳語を避けてあえて「夕べの国」という語を採用しているのかはよくわからない。
あとで思いついて、このPEGIDAについて「夕べの国」という言葉を使っているウェブサイトがないかと検索してみたところ、次のような記事を見つけた。
これは『ドイツの新右翼』という本の書評なのだが、その『ドイツの新右翼』の著者が、今回『新たな極右主義の諸側面』に「あとがき」を書いているフォルカー・ヴァイスである。この書評(3−4ページ目)によれば、
……ヴァイスが問題にするのは、右翼的思考の源泉にある「神話」なのである。より具体的には、第7章で詳述される「夕べの国」(アーベントラント)概念……「夕べの国」とは、ユーラシア大陸の反対側の日本が「日の出ずる国」と表されるようなもので、ヨーロッパのことを指す。しかし「日の出ずる国」と同様、「夕べの国」というフレーズには、当地の人々にとって何かエモーショナルな感情を掻き立てるものがある。それはドイツの民族主義にとって「我々の場所」のことなのだ
とあって、ヴァイスにとってはAbendlandesという語に込められた、単なるヨーロッパ=西洋を指すだけでない意味合いこそが重要な論点のひとつとなっているらしいことがわかる。その意を汲んで、本書『新たな極右主義の諸側面』のあとがきに於いても、PEGIDAの訳語として「夕べの国」という日本語が選択されているのだろう。
しかし政治団体名のような固有名詞については、一般的に定着した訳語がある場合はだいたいそれに統一することが多いと思われるので、普通の時事ニュース記事などでこの団体名を見知っていた読者がもしこの訳語を見たら、たぶん違和感を覚えることだろう。私自身はそもそもこの近年出現した反イスラーム団体そのものを全く見聞きしたことがなく、今回はじめてその存在を知ったので、へーっそういう名前なのか、と最初の印象としてこの単語と共に憶えることになった。上記のWikipedia記事および『ドイツの新右翼』書評記事(北守=藤崎剛人さんによる)は、これからよく読ませてもらうつもり。
以上、新春しらべもの初めでした。
*1:昨年2月に、橋本先生によるアドルノ入門講座へ行ったことが今回の本を手にとった契機。思えばあれが、お外でその種の集まり(座席が密)に参加できた最後だったかも。
棋士たちのヴァルハラ?
死神の刃の下で駒を凝視する男の行方は――。圧倒的引力で読ませる将棋ミステリ。――負けました。これをいうのは人生で何度目だろう。将棋に魅入られ、頂点を目指し、深みへ潜った男は鳩森神社で不詰めの図式を拾って姿を消した。彼の行方を追う旅が始まったが……。北海道の廃坑、幻の「棋道会」、美しい女流二段、地下神殿の対局、盤上の磐、そして将棋指しの呪い。前代未聞の将棋エンタテインメント。
竜王戦番勝負のさなか羽生善治九段が「高熱を出し入院」との気懸りな報せ(11月11日)につづき、藤井聡太二冠の王位就位式が行われた(11月12日)夜に、新旧棋士たちの戦い続ける人生を垣間見つつ読了。
著者はどこだったかで、本作には(名前こそ出ていないけれど)読めばそれとわかるように藤井さんも登場しています、ということを書いていた。物語の時代設定が少し前になっているので、途中までは「あれ、藤井さんはどんなふうに出てくるんだろう」と心配になりかけたけど、最後のほうでとうとう…。棋士の戦いの凄みは、将棋を全く解しない私の想像がおよぶものではないけれども、就位式ではいつものように柔かな笑みを見せていた藤井二冠も、究極の将棋を求めて既にあの世界へ入ってしまっているのか、と痛ましい(笑)気持ちにすらなった。
そして、この人も年代的に本作中では未だ名前が出てこないけれども:
dot.asahi.com
(…)盤上で激しくしのぎを削り合う棋士たちの頭の中身はいったいどうなっているのだろう(…)
渡辺名人は頭の中に盤自体がなくダークグレーの空間に駒の形や文字もはっきり浮かばない「暗黒星雲型」ともいうべきスタイルだった。
↑ この箇所を読んだとき、渡辺明三冠も間違いなくあの地下神殿で将棋を指してるな…と確信。
私としては、かつて存在したらしい”将棋カルト”ともいうべき団体をめぐる伝奇ホラーの側面にもう少し濃いものを期待していた*1けれど、どちらかというと[アンチ]ミステリ寄りであったように思う。
物語全体が「不詰め」であり、謎を追って姿を消した若手棋士とそれを追う(挫折した)元棋士という繰り返される相似を含めて、もしかしたら更に将棋の隠喩が含まれているのかもしれないが、そこは私には読み取り不能。しかし、第三章で「私」がホテルで夢にみる、龍の口の坑道に吸い込まれていく人々と作業服の男の場面や、執拗に描写される、岩の祭壇や金剛床のある地下神殿での巨大将棋の場面は、身に覚えのある悪夢の感触がよみがえって生々しく、いつか自分もそれを見たかのような気分になった。その鮮明さに対して、登場人物たちは(いずれも将棋指しである以上ある種の強烈なひとびとであることは確かなはずなのに)しだいに輪郭がゆらぎぼやけて曖昧で不確かな、それこそ文字通りの「単なる駒にすぎない」なにかへ変わり果て、結末にたどりつくと誰もがパタパタと書き割りを折り畳むように溶解していってしまう。ただ変わらず存在するのはあの空間で永遠に対局し続けるあの棋士たちのほうか…というコントラストが印象的。ただ、関西将棋会館が登場するとは思わなかったので、そこではちょっと吹き出しそうになった。
↓ 登場人物・できごとの時系列までまとめてくださっている親切なブログ。本作読了してからの閲覧がおすすめ。私も繰り返して読めばもう少し真相らしきものに近づけるのだろうか……
- 死神の棋譜/ウタタネコル