『ブッチャー・ボーイ』補足(長いです)

 先日感想を書いた映画『ブッチャー・ボーイ』について、思ったことを2点付け加えます。


[1]日本未公開の理由


 『ブッチャー・ボーイ』が日本で劇場公開されなかった理由として、先に参照させて頂いた【シネマでUK & Irelandを感じよう】には

日本では、世を震撼させたある少年犯罪事件とのからみで劇場公開されず

と書かれているし、他のサイトでも同様の説明を見かけた。おそらく実際そうだったのだろう。主人公の少年が、敵視していたご近所の女性を惨殺し、死体の首を切断して堆肥用の野菜屑の山に隠す、というショッキングな描写が、当時その事件を思い起こさせる可能性は充分あったのだと思う。


 ただ私は、その他にも配給会社を躊躇させる要素がこの映画には含まれていたように思う。それは、更生施設から戻ってきた少年の就いた仕事が豚の屠殺・解体であったこと、そしてその職業が彼の殺害実行と結びつくかのようなイメージが映画に含まれていたことである。
 作中、彼が行きつけの食料品店へ、切断された豚の頭部を見せびらかすかのように持ち込むシーンがあった。そして食肉として処理された豚がオブジェのように置かれた「職場」から彼は刃物を手に、殺害現場となるニュージェント家へ出向いていくのだ。そして犯行後、鏡には"PIG"という血文字が残されている。彼の犯行には(お前こそブタだ)(豚のように殺してやる)というメッセージが込められている。ニュージェント夫人から「ブタ」と辱められたフランシーが夫人に復讐することと、肉屋での豚の屠殺・解体のイメージが重ね合わせられていることは明らかである。彼がその職業に就いたことが殺人のキッカケになったとまでは、もちろん示唆されていない。しかしそう受け取られる可能性、それが論議を呼ぶ可能性を配給会社が危惧したのではないかという気がする。


 この件について書くために検索していて見つけた内澤旬子さんの日記で、ほんらい「牧畜国家では、肉を捌く職業を賤視していない」ことと、日本での受け取られ方との違いについて書かれているのを読み、そのへんの事情もこの映画が公開されなかったことに少しは影響したのではないかと改めて感じた。
 (なお、内澤さんも使われている「屠畜」という言葉は、「屠畜業」「屠畜場」などには適切だと思いますが、上の私の文章では「豚を屠畜」としてしまうと「馬から落馬」みたいになり、かえっておかしいと思うので「屠殺」と書きました。いろいろ問題のある言葉であることは承知していますが、他の適当な言い方を知りません。「屠畜」は内澤さんの主要テーマのひとつであるらしいので、日記を引き続き読ませて頂こうと思います。)



[2]フランシーの告白に対するジョンの反応


 フランシーと“血の兄弟”=無二の親友であるジョン。2人のいつもの遊び場所=川べりの秘密基地で、更生施設から予想外に早く戻ってきたフランシーが、その経緯をジョンに明かす場面がある。
 変態神父と部屋でふたりきりになった時に、ボンネットをかぶらされ(=女の子の格好をさせられ)たことを黙っている代わりに、更生を認められて家に帰ることが出来たといういきさつである。これを聞いたとたん、ジョンが顔色をかえてまさに後ずさりするようにフランシーから離れて行く。慌てたフランシーは「ウソだよ」と取り繕おうとする。


 この場面で、ジョンの反応の意味するところが、私には少しはっきりしなかった。ジョンは、それまでにもフランシーのあまりに乱暴で奇矯な振る舞いに、ついていけない感じを多少は抱いていたのは確かである。しかしこの時点では依然2人は親友だったはず。フランシーの打ち明け話に対するジョンの反応はまるでおぞましい怪物か汚いものをみせられたかのようで、極端な嫌悪か恐怖の表現のように見えた。いったい、ジョンは「フランシーが大人と不正な取引をして施設を出たこと」がショックだったのか、それとも「フランシーが性的ないたずらをされたこと/女の子の格好をさせられたこと」に対する嫌悪を感じたのか?


 ジョンはこの映画の中では、あまりにもお堅いニュージェント家(の息子でいじめられ役のフィリップ)とフランシーの間で、中庸の位置を占めているキャラクターである。フランシーの悪行のかずかずの同伴者ではあったが、やがてそのあまりの無軌道ぶりに愛想を尽かし、案外いいヤツだと判ったフィリップとの交友のほうをしだいに選択していく=社会の現実と折り合っていく役柄だ。とはいえ元は悪ガキ仲間。フランシーの「取引」の話にそれほどショックを受けるとも考えにくいような気がする。すると、やはり後者の、性的いたずらをされた被害者であるフランシー自身に強い嫌悪を感じたという可能性が大きくないだろうか。
 少し前の時代のアイルランドが舞台のこの物語、登場人物たちは皆たぶん素朴で熱心なカトリックだろう。その道徳観からしておそらく、フランシーが性的ないたずらをされたという話を聞くこと自体、とても忌まわしいことであっても不思議はない。しかし、もしジョンの激しい反応の理由が後者であったとしたら、それはまるで性的虐待の被害者である子供のほうに罪があるかのような態度である。


 フランシー自身の冷笑的でふてぶてしい態度からは、神父から性的いたずらをされたことでどれほど傷ついたのかは測りがたい(この物語の中で彼は、常にそうやって悪ふざけと大暴れの中に、あらゆる悲しみや怒りを溶け込ませてしまっているから)。しかしジョンの反応をみてすぐさま「ウソだよ」と言い繕わざるを得なかったのと同様、それ以後彼にとってこの経験は、たとえ「黙っている」という約束が無くても、自分の中に抑えこむほかないものになったはずである。
 〈被害者も汚れている〉あるいは〈聖職者にそんなことをさせたのは、汚らわしい被害者が誘惑したからではないか〉・・そのような価値観/道徳観が、“血の兄弟”でありフランシーの理解者であったはずのジョンにまで浸透していたのだとしたら、おそらく保守的であろう町全体が(もしこの事実が知れたとして)フランシーを見る目はどんなものだったろう?
 この物語には、両親の不和や貧困・心を病んだ母の死・偽善的な教会や施設・一家を見くだす隣人など、フランシー少年を追いつめる要素が幾つか出てくる。が、結局おもてに現れることの無かった、「被害者」フランシーに対するこのような潜在的な視線もまた、フランシーに対する見えない暴力だったのかもしれないと思う。

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 (この項目に限ったことではありませんが・・)注意散漫な私が、一回きりしか観ていないビデオの記憶を頼りに書いていますので、映画の内容についても勘違い・誤認の可能性大であります。以上の2点、どちらも私の思い過ごし・見当はずれな感想かもしれません。
 しかし特に2番目の、「ジョンがあれほど激しい(おそらく嫌悪の)反応を見せたのは何に対してなのか」という点について、あれはこういうことなんじゃないか?というようなご指摘をくださる方ありましたら、ご意見お待ちしております(^^)ゝ。