その(他の)人々に

 つづけて読了。


 いずれも文芸評論でありブックガイドともいえる内容で、とくに後者の「テクノゴシック101選」と題した付録は、著者のお薦め作品が映画・音楽・小説の各ジャンルから列挙されており、ちょっとした眩暈が・・・・でも前者で取り上げられている作品の多くは未邦訳で、たとえ読みたくても読めないのでひと安心です。


 『テクノゴシック』の装幀(byミルキィ・イソベ)はなんとなく80年代後半〜バブル期に、トレヴィルやリブロポートから出た本などで見かけたテイストのような気がして、懐かしい感じがする。常に「もうちょっとシンプルに書いてくれても」と言いたくなる小谷氏の文章の、必要以上に華麗なスタイルも、バブル期の過剰で爛熟した雰囲気を思い出させて私のアコガレ。ただし、90年代半ば以降に書かれたものが多くなる本書は、ちょっとアッサリめ文体かもしれない。
 とはいえ、元祖ゴシック→19世紀英国におけるゴシック・リバイバル→20世紀末の「ゴス」隆盛へと、いくたびも甦るゴシックなるものを「テクノゴシック」概念のもとに総ざらえしてみせようという本だけに、読みごたえがある。なかには「えッ、それもゴシック?」と言いたくなるような強引さもあるが、それも魅力のうち。


 前者の標題にあるエイリアン=「他者」であり、《白人男性以外の人々、異邦人、外国人、旅人、同性愛者、動物、女性、エトセトラ》を指している。
 また、Gothicという言葉がもともと(イタリア人から見て)「アルプス以北の野蛮な奴らの流儀」を指して使われたのだとすると、これもまた「われわれ以外のあの者たち」「あちら側の者」を意味するわけで、「他者」とそれによってよびおこされる不快や不安を示唆するという点において「エイリアン」と同様な概念と言える。実際、とりあげられている作品の一部は重なり合っている。
 『テクノゴシック』で取り上げられた古今東西のさまざまなゴシック・イコンの中で、さすが別格と思わせるのが、今さらながら吸血鬼>ドラキュラ伯爵である。《人種・階級・性差・セクシュアリティ、病といったあらゆる社会における逸脱性と結びつけられた》その存在は、まさにキング・オブ・他者。あらためてその魅力と侵犯力を認識しました。
 ほかに『攻殻機動隊』『マトリックス』シリーズについて詳細な分析がされているが、私はいずれも一部しか観ていないので残念。


 『エイリアン・ベッドフェロウズ』では、《みずからをエイリアンと重ね合わせ》《社会においてみずから異質であるのを自覚する人々の姿》を論じるとして、主に女性SF作家の作品が取り上げられている。
 しかしその中でも異色の書物が、フィクションではなくてフィリップ・ホーア著『真面目な快楽 − スティーブン・テナントの生涯』。セシル・ビートンをはじめとする20世紀初頭の作家・画家などと交流を持ち、その美貌と芸術的感性とライフスタイルがクリエイターたちに影響を与えたとされる人物*1の伝記である。
 テナント本人は非常に裕福で、あらゆる方面に芸術的才能を示しながら、ついにディレッタントでしかなかったらしい。ふつうこのような、芸術家たちの傍らにあってインスパイアする役回りは女性に割りふられていて、そういうタイプの女性は「詩神(ミューズ)」と呼ばれたりするが、女性と見まちがうような容貌のこの謎めいた男性は、めずらしく「男詩神」だったのだ。自らは創作という生産的なプロセスの外側にいて、触媒のはたらきをする人物。しかも、性差を踏み越えるような身ぶりで。二重の意味で「外部」であったと言えそうなこの人物は、まるでこの評論集を象徴するために存在したみたいである。


 蛇足ですが、『エイリアン・ベッドフェロウズ』巻末で、スコットランドの名家出身で政治家としての経歴もあるという女流作家、ナオミ・ミチスンを紹介するにあたって、《訃報がまだないので今年一〇六歳になるはず》と書かれてある箇所に、ひょっとして不死者?・・とゴシックな戦慄を感じてしまったことを書き留めておきたい*2

*1:Wikipediaによると、『ブライヅヘッドふたたび』のセバスチャンのモデルとも考えられている!

*2:実は1999年に101歳で亡くなっているらしい