バルカンの暗鬱なユーモア

四方田犬彦『見ることの塩 パレスチナセルビア紀行』(作品社) 読了。

 5月3日の日記の続きです。

 そもそもこの本を読もうと思いついたのは、2月に雑誌のバックナンバーで著者(四方田氏)によるクストリッツァ論を見かけたのがきっかけだったので、第2部「セルビアコソヴォ」のほうが本当の目当て。そこで思わぬ名前に再会することになった。

 20年近く前、わけのわからん映画にまで首を突っ込んでいた時期に観た映画のひとつに、ドゥシャン・マカヴェイエフの『スウィート・ムービー』があった。今のようにヴィデオが普及していなかったその当時、まだ映画サークルとか“自主上映”とかいうのがあって、そういう場で観たのだけれど、お砂糖まみれのしっちゃかめっちゃか映画だったのと、「こんな映画に子供を出すなんて虐待(という言い方は当時思いつかなくてたぶん“児童福祉法違反”)では?」と思った記憶しかなくてごめんなさい。そのマカヴェイエフが、ユーゴ映画人の重鎮として健在であることをこの本で久しぶりに知ったというわけ。

マカヴェイエフは淡々とした口調で、九〇年代の日々を語った。彼が深い悲嘆を抱いていることは推測できたが、生来のユーモアと冷静さが、それが表に出ることを押し留めていた。自分はコスモポリタンだと、彼は繰り返し口にした。セルビア人でもあり、ユーゴスラビア人でもあり、フランス人でもある。

 ドゥシャン・マカヴェイエフが90年代に撮った自伝的エッセイ風の作品『魂に空いた穴』というのを、観てみたいと思う。見喪われたベオグラードの魂を呼び戻すために、チベットマントラに唱和し、ロマの楽人がそれに加わるというそのシーンを観て聴いてみたい。あの激しい悪ふざけいっぱい(と当時の ー ユーゴという国について何ひとつ知らなかったし、マカヴェイエフがどこの国の人かも意識していなかった ー 私には見えた)映画を作った人は、いったい何者だったのか、そこでやっと私にも分かるかもしれない。(続く・・)