『大聖堂』、大団円

 ケン・フォレット『大聖堂』(下) 読了。

 大聖堂建築に生涯を賭けるジャックはキングズブリッジを追われて大陸に渡り、トレドでイスラム文化を吸収し、次いでパリに赴いて最初のゴシック建築であるサン・ドニ大聖堂を目の当たりにする。サン・ドニ修道院長シュジェールその人まで登場したのにはびっくり。
 技術・人材・資金まで手にしたジャックがキングズブリッジに戻り、もう安泰かと思わせておいて、まだ続く苦難におそわれるフィリップ(修道)院長、ジャック、彼と愛し合っている(のになかなか結婚できない)アリエナたち。宿敵ウォールラン司教や、暴力的な領主ウィリアム・ハムレイ、ジャックと反目する義兄アルフレッドたちが絶えず彼らを陥れようとしてくるので、これでもかと危機が訪れ結末まで安心できません。小説の一番最初で処刑された(実はジャックの生みの父親である)吟遊詩人がなぜ陥れられたのか、最後の最後で種明かしがあったけど、だいたい想像がつく話なのでちょっとひっぱりすぎで余分な感じ。
 世俗権力と宗教権力が利用しあい牽制しあって社会が動いていたようすが、繰り返される企みと裏切りの中に描かれている。最後は世俗権力側が、大聖堂の中で居並ぶ有力聖職者たちの前にひれ伏す象徴的なシーン。読者は最初からフィリップ院長の視点で追いかけているので、ここはついホッと安堵してしまうところだが、見方を変えればカンタベリ大司教トマス・ベケット暗殺という血なまぐさい事件を、トマスを殉教の聖人にまつり上げることによって膨らませ、ヘンリー王の足下を掬い、貸しを負わせるのに役立てた宗教権力側の狡猾さも感じられる。権力の亡者同士のどっちもどっちな争い・・・しかしそう見えないように、トマスの最期は高位聖職者らしい気高く潔いものに描いてある。ウォールランも最後には真摯な悔悟の機会を与えられる。聖職者たちは生臭く、しかしやはりそれだけでもない。非道の限りを尽くしたように見えたウィリアム・ハムレイも、人殺しの罪で地獄に堕ちることは本気で恐怖していた。その辺を描くことで、善ぇもんvs悪いもんの単純さをいくぶんか免れているところが良いと思った。


※上・中巻についてはこちら↓
http://d.hatena.ne.jp/nigellanoire/20060928#p1
http://d.hatena.ne.jp/nigellanoire/20061006#p1
http://d.hatena.ne.jp/nigellanoire/20061016#p1