天然瓦斯の恐怖

金井美恵子『快適生活研究』(朝日新聞社) 読了。


 これまでの「目白○部作」シリーズ、どんなのだったかほとんど何もおぼえていないけれど、これほどイヤーな内容だったことは無かったではないか。そのぐらい、タイトルとはほど遠い、嫌悪感と黒い笑いの一冊。


 建築家E氏(お金に汚くどうにも鼻持ちならん団塊オヤジ)が発行する、自慢話と自分語り満載の個人紙「よゆう通信」というのが、この連作短篇集の中で重要なアイテムになっている。誰からももれなくイヤがられつつ、登場人物たちに次々と送り届けられ増殖するさまは、まるで「不幸の手紙」か「恐怖新聞」のよう。被害者(笑)のひとり、杉田さんは

なんで自分が、『よゆう通信』の準備号も含めて、つい熱心に読んでしまうのかといえば、それはもちろん、不快さのせいだと考えている

のだが、それはこの『快適生活研究』を読む私にも当てはまるのである。


 作中で、その「よゆう通信」を上回る圧倒的な不快感を巻き起こすのが、60歳かそこらまで独身家付き娘を続けたあげく、つい最近結婚した「あき子さん」なる人物の書く手紙の数々。スケールの大きな脱線と中断*1を繰り返しつつ、常軌を逸した無神経さと発生源のうかがい知れない(今ふうに言えば「天然」?な)悪意で編み上げられた長大なその書簡群を読んでいると、もう目の前が濃黄色の猛毒ガスで曇っていくような気分にさせられる。それでも読むのが止められない面白すぎて!タチケテ!こんな友達がいたらほんとに身体を悪くしそう。というか、事実、「あき子さん」の「親友」真理子さんは、彼女からの手紙を受け取るたびに、どんどん不幸のスパイラルに陥っていくらしいのである。
 同様の、初老世代の(けっこう豊かな階層に属する)女達のイヤな生態とひそかな悪意を描いた小説として、甘糟幸子さんの作品を思い出すが、あんな上品な仕上げじゃありませんからね金井作品は。


 いくつかの家族が登場し、それがどこかで繋がっていくのも面白いのだが、どの家族のどの話も、「結婚と家と相続」を中心に回るのはオースティン風というところかしら。たしか笙野頼子の猫小説のなかで、東京都内の(たぶん戦前からの)土地持ち住民が、持たざる(たとえば賃貸マンション住まいで、ビクビクしながら猫を飼っているような)者に対して人を人とも思わないような態度を見せるというような話が出てきたと思うのだけど、『快適生活研究』に出てくる熟年たち、杉田夫妻もあき子さんも、親の代から都心に家やら土地やらの資産を所有していることで現在の生活が成り立っているような人たちである。この本に書かれているなんともイヤ〜な空気の一部は、笙野作品が言及していたものと同種かもしれないという気がちょっとした。


 というわけで、新メンバー加入やら世代交代やらを含みつつ、目白シリーズは滔々と流れ続けていくらしい。今後も楽しみに読みます。といっても7、8年に一冊でじゅうぶんですわ。

*1:いったいどれくらいかかって、グズグズとこの長い手紙を書いているのだろうと思っていると、小説の最後近くでやっとおそるべき時間の流れが明らかにされる:《前に書いた手紙を読みかえしてみたら、中途はんぱなところで終わってました。あなたのお家の新築完成が九月でしたっけ、私は目白で一枚仕立ての手織りウールのコートを買って、竹の子のお礼のことも書いてあるから、書き始めたのが十月か十一月で、書きやめたのが、たぶん、四月なんだと思います。ヤレヤレ、あきれたのんびり屋のアキコさんだこと。あなたが入院したのが七月で、退院してもうふた月の今は十月です。》注:「アキコさん」はもちろんこの手紙を書いている本人