虹が見えなくても

ジェフ・ライマン『夢の終わりに・・・』(国書刊行会/夢の文学館)読了。


 id:globalheadことフモさんが、子供時代の思い出にからめてこの本を取り上げておられた。雪の上に寝転がって腕を上下にバタバタさせて天使の形を作るという、その場面が読みたくて私も手に取ってみたのですが・・・いやもー、つらかった*1!こんなつらい小説を読んだことが今まであっただろうかと思うぐらい。よくも読ませたなー>フモさん・・と言いたいところですが、この本も作者も私はぜんぜん知らなかったので、ほんとは大変感謝
 フモさんが日記で綴っているのは、きらきらした思い出が幾つも飛び出してくる宝箱のような子供時代だけど、この小説には不幸な子供時代を過ごした人物が3人登場する。その3人が『オズの魔法使い』の世界でひとつに出会うことになる。ひとりはほかならぬドロシーその人、映画でその役を演じたジュディ・ガーランド、そして『オズの魔法使い』を心の友として育ったジョナサン。子供たちにとっての生きづらさは三者三様、必ずしも典型的な貧困や虐待ばかりが理由ではない。


 私も子供の頃にテレビで『オズの魔法使い』を観たことがあるが、古い映画独特の色彩が子供には少々見づらくて疲れたというのと、ブリキ男になぜか淡い恋心を抱き、そんなものを好きになるなんてバカみたいと自分ながら呆れたということだけ憶えている。フランク・ボームの原作のほうは読んでいない。それほど魅力を感じなかったのだろう。だからこの小説で『オズの魔法使い』に由来する部分には、私にはピンと来ていない箇所がたくさんあるかもしれない。
 ところで、ミュージカルやライザ・ミネリがゲイの人たちに人気があるというのはよく言われることみたいで、たぶん先日みた映画『フローレス』に登場したようなおネエさんたちもさぞかしライザ・ミネリはお気に入りであろうと思うのだけど、今までそれは、ミュージカル独特のあの華やかで陽気なムードが好まれるってことかなと単純に考えていた。しかし、ジュディ・ガーランド父親が同性愛者で、そのため両親の結婚は不幸な結果に終わったということを、この小説で初めて知った。また、ジュディ自身や娘であるライザ・ミネリの結婚相手たちに関しても、同性愛者だという噂はずっと囁かれてきたらしい。それが事実としたら、何かこの一族というか女性三代には、同性愛傾向の男性と否応なく巻きこみ合ってしまう特殊な引力でも備わっているのだろうか?
 この小説の中でも、同性愛者でしかも自閉症のジョナサンが、子供時代から『オズの魔法使い』に深い思い入れを抱き続けるという設定になっている。それを読むと、やはりその種の人たちが常に味わわざるを得ないこの世界に対する違和感や生きづらさに対して、『オズの魔法使い』に代表されるファンタジーやミュージカルが、特別な癒しの力を持っているからこそ愛されるのかもしれないと思った。


 それにしても、この小説の中の「実在したドロシー」が堪え忍ばなければならなかった子供時代はなんと過酷なことか!飛躍しすぎかもしれないが、同じように殺伐たるアメリカが生み出したのであろうゲイリー・ギルモアなんかのことも連想してしまった。


 この本の最後に添えられた「リアリティ・チェック」と題した短文の中で、作者はこの小説のどことどこが歴史的な事実でどこからが自分の創作か、どのような資料に基づいて書かれたのか、などを明かしている。作者は自分を「リアリズムに恋したファンタジイ作家」と呼び、「歴史とファンタジイをはっきり識別」することによって「歴史とファンタジイをおたがいに対抗させるために使う」と結んでいて、まるで作家としてのマニフェストみたいな、調子の高い文章だ。そこに、命の最後の一滴を振り絞るようにして、ドロシーが確かに実在した場所を探し求めたジョナサンの姿も重なる。残酷な歴史=現実がある限り、ファンタジーは書かれなければならないし、それは特別に辛い生を生きる人のためだけではない。
 先述の3人の子供たちに比べて地味な役回りだが、晩年のドロシーを知る証言者でありジョナサンのカウンセラーとなるビルの存在も忘れられない。彼はとりたてて「不幸な子供時代」を過ごしたわけでもなく、現在もいわば穏やかな成功者の日々を送っている人物だ。しかし彼もまた、祈ることが出来なくなった自分への絶望を深く抱いて、奇跡が起こるのを待ち望んでいる。そして彼はジョナサンに訪れた奇跡を目撃し、ふたたび証言者となる。それは、歴史とファンタジーが出会う点を見つけだすこと。
 川本三郎が解説に書いた「ファンタジーとは、痛めつけられた子どもが最後に逃げ込む隠れ場所」というフレーズがあまりに強くて、そこばかりに注目が行きがちだ。しかし、それはファンタジーがやむにやまれず発生する場を説明しているのであって、(書かれた)ファンタジー(作品)の存在意義はもちろんそれだけではないはず。
 小説の終わりに、ジョナサンからの半ば混乱した美しい手紙を恋人アイラが読み、実在したエムおばさんの書き残した詩をビルが読む。そして最後は「子どもだというのがどんなことか」「ぼくは忘れないよ」という(幼い頃の)フランク・ボームの言葉で結ばれている。書かれた物が読まれ、書いた者と読む者とが幾重にもつながる。生み出されたファンタジーが歴史と対置される時、そのつながりの中にある者すべてにとって救いとなりうることを示すようなこれらの場面に、ファンタジーの受け手である私は強い印象を受けた。

*1:ちなみにこの小説、質量ともにヘビーではあったものの、文章としてはかなり読みやすかった。古沢嘉通氏の翻訳もきっと良かったんだと思います。同じく古沢訳のクリストファー・プリースト『奇術師』は持ってるんだけど未読。これも映画になるらしいので早く読まないと・・・