死者にだけ書ける歴史

『アメリカン・ヒストリーX』トニー・ケイ監督


 相変わらず、古いビデオ消化中です(^^;)。


 白人至上主義スキンヘッド集団と黒人グループとの対立がお話の主題だけれど、もっと普遍的に、この世のあちこちで起きている憎悪と対立の構造を、思い起こさせるストーリーになっている。

 父親を黒人に殺害されたことをきっかけに、白人至上主義集団にのめり込んで行った兄と、兄を崇拝しその歩みを追おうとする弟。主人公一家が全員、悲愴に美しい顔つきをしていて、この一家を襲った悲劇と試みられた復讐を「もっともなこと」のように錯覚させてくれる。
 その美しい顔に似合わない憎悪を必死で身にまとって(エドワード・ノートンの鍛え上げた筋肉が、その「着込んだものの似合わなさ」を視覚化)、何かを立て直そうとした兄弟がデレク(エドワード・ノートン)とダニー(エドワード・ファーロング)。ふたりエドワード、どちらもきれいですね(←しつこい)。


 ヒゲを生やしたエドワード・ノートンは何となく『デッドマン・ウォーキング』のショーン・ペンを思い出させる。どちらも泣きべそ顔の俳優。自動車盗を図った黒人青年を惨殺し、その場で確信犯の笑みを浮かべ両手を挙げて逮捕される姿が、『デッドマン…』の処刑シーンと同様、キリストの磔刑を真似ているようで、自分の罪というより何かの犠牲になろうとしているように見える。


 デレクは恩師に「怒りは君を幸せにしたか?」と問われて、自分の怒りと憎悪がむしろ自らを蝕み、割に合わないものだと悟る。そしてダニーも「2人殺しても怒りは消えなかった。怒りの重荷に疲れた」という兄の言葉で目を覚まし、スキンヘッド集団からの離脱を決意する。が、悲劇はもうそこまで近づいてきていた。
 一点の曇りもなく幸せだった家族の朝に、さいしょの憎しみの種をそっと播いたのが、ほかならぬ父であったことを思い出してしまった時点で、ダニーの運命は決まっていたのかもしれない。あれは末期の眼から見返した真実だったのだ。憎しみと怒りから解放された人生を希求する彼の宿題(リポート)は、じつは彼岸からしか書くことのできない境地だった。「アメリカン・ヒストリーX」とは、ダニーが指示された宿題のテーマ=「(自分の)一家族の歴史」でもあるのだが、「X」は、そのようなついに書かれることのない不可能な歴史、結び得ないままの結末を示しているのだろう。


 最後にダニーの声で《憎しみとは耐えがたいほど重い荷物/怒りにまかせるには人生は短すぎる》という一文が読み上げられる。しかし、憎しみを払い捨てることを決意したデレクには、更に耐えがたい重さが終生のしかかるに違いない。怒りを乗り越えようと努力し続ける者にとって、人生の苦しみは果たして短いといえるだろうか。
 世界のどこにも、憎悪が終わった場所は無い。デレクと同じように怒りから自分を解放しようとしたにも関わらず、更なる痛みに襲われた人たちが、あちこちで嘆き続けていることだろう。そこでは、むしろ憎み続けることのほうがよっぽどの慰藉であり、苦しみを和らげてくれる麻薬なのだ。あの後、デレクはどうやって耐えるのだろう?


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 ちょうどこのビデオを観るのと前後して、NHK-BSでゲッベルスの日記とニュース映像をもとにした『メディア操作の天才・ゲッベルス』と、生き残った側近たちの証言で綴った『証言・ヒトラーの最期』というドキュメンタリー番組を続けて放映していた。憎悪の劇薬を呷った人々の、大多数はほぼ正気でそうしただろうこと、薬がきつすぎて(?)ヒトラーは破滅したけれど、その毒が遙かとおく未だに尾をひいて残響し続けていることを思った。