書評の批評(続き)

 昨日書いた池内恵書物の運命』(文藝春秋)の読了メモの続きです。

 ところで、最初に書いたバーナード・ルイスの『イスラム世界はなぜ没落したか? ー 西洋近代と中東』(日本評論社)に関する論争。ルイスはアメリカにおける中東研究の権威であり、アメリカ政府の中東政策にも大きな影響を与えているそうである。ところが、この邦訳書は、監訳者である臼杵陽氏による長大にして否定的な「解題」を、しかも本文の前に置いた形で出版された。その形式自体(ふつうは「解題」は巻頭に置かず巻末に付すのが「常識」だそうです)も含めて池内氏はかなり強い調子で批判している。

「解題」の意味するところを思い切ってかいつまんでまとめるなら、「この本の著者はかつてはいい研究をしていたが、今やネオコンのイデオローグに堕してしまった。反面教師として大いに疑ってかかってお読みなさい」というものである(・・略・・)そもそも原著者には、「ダメになった人」「ダメ本」の烙印を押されて市場に出るなどということは伝えてあるのだろうか。

(注:監訳者および書肆は)「本文はダメ、あまり読まない方がいい、しかし解題は正しい」という形での評価を望んでいるということになる。しかし、それならばなぜわざわざ翻訳を刊行するのか。解題だけを出版してその議論の成否を正々堂々と問えばいいというだけの話ではないだろうか。この訳書の体裁では、日本では冒頭に付された「非難声明」を介さずにはこの本を読めないようにし、いわば原著を「人質にとって」理解や議論を方向付けていることになる。

海外の「大物」を持ってきて人目を惹いた挙句、相手が反論してくる可能性がほとんどなさそうな条件で(つまり日本語の解説で日本の論壇向けに)言いたい放題を書き、あわよくば非難した「大物」と同等以上の地位にあるかのように自分を印象付けようというのは、「人の褌で相撲を取る」の典型だ。とても誠実な言論のあり方とは思えない。

・・と、そうとうケンカに近い感じ(^^;)。これに対しては臼杵氏や版元サイドから反論はあったんでしょうかね?

 それはともかく、続いて池内氏は、この問題含みな書物に対する(池内氏自身によるものを含む)四大紙掲載の書評を比較。ルイスの地道で実証主義的な長年の中東研究(特にオスマン帝国・トルコが専門)の蓄積をふまえることなく、党派的な観点から全否定してしまう見方を批判している。そして、そのような姿勢が生じる背景として挙げられるのが

  • エドワード・サイードが批判の対象としているルイスだから*1と自動的に批判に回るような、「サイード派」というより「サイード教」的な一派が学界内に存在すること。その根底にある、欧米で流行の思想傾向を、文脈から切り離して輸入し信奉する、日本の学問全体の習性。
  • 日本自身の「近代化」をめぐる屈折した心理が、その時代によって中国や北朝鮮、ユーゴやキューバ、そしてアラブや「イスラーム」に絶えず「第三項」の夢を投影させている。近代や近代化論を考える上での引き合いに出す対象としてアラブや「イスラーム」を利用しているに過ぎない。
  • イスラーム原理主義って言っちゃダメ」とか「テロ事件とか起こしているのは特殊な集団なんだからイスラームと呼んじゃダメ」とか都合の良いように定義を操作して、それが学問として通ってしまっている日本の中東/イスラーム学業界。

・・・と、どんどん長くなってしまうのでもう諦めます( ̄∀ ̄;)が、業界内対立関係はかなり深そう。私なんかは新聞のコラムやニュース解説を読む程度ながら、池内・臼杵山内昌之各氏の名前は確かによく見かけるし、いずれも同様にフーンと思って読んでしまっている(←批判能力ゼロ)けれど、これからは要らぬことが気になってしまいそう。

 それはともかく、池内氏が最後に指摘している点は興味深い。すなわちイスラーム国家においては

実体としては政教の乖離が進んでいたものの、思想、理念においては「政教一致」という考え方がずっと維持されてきた。

そのため

現実の政治と宗教的理念が乖離しているという現実があり、主流の政治思想はそれを隠蔽するような議論を繰り返す中で、それを批判する動きも絶えず出てきた。そのために武力を用いてでも行動に出るか否か、は微妙な問題であるが常に関心事であった。(...)反体制運動は行動主義を宣揚することが多いが、自分が権力を握ると一転して行動を戒め、正義の実現は最後の審判まで持ち越せ、というような議論をするのが通例である。

 そのような思想的な揺れが絶えず繰り返されてきた歴史がイスラーム政治思想を形作っており、ビン・ラーディンの思想と行動も必ずしもイスラーム教からの逸脱とは言い切れない、としている。過激なまでに純粋な宗教的理念が「原理主義」なのだろうけど、ほんとうに純粋な宗教的理念が、全きかたちで実現され得るのならそこには「原理主義」は存在せずに済むというパラドクス(あるいは当たり前の理屈)。前回の末尾に書いた、ある意味でシンプルなイスラームの教えと、必ずしも単純ではなかった近年のアラブ/イスラーム社会との関係を合わせて考えると、宗教を宗教として切り出して考えることの難しさ(または空しさ?)も感じる。

 おまけ→イスラム原理主義 - Wikipedia*2

*1:イードのルイス批判自体を、池内氏は「感情論、言いがかりに近いもの」としている

*2:リンク先に出てくるイスラーム「復興」というタームも、池内氏は現地での実態に合わず採らないとする立場。