空間音痴その2

 かなりアホなことを書いているのかもしれないと恐れつつ、昨日のこれの続きです。

 もうひとつ、こっちはずいぶん前に読んだ、「高桟敷」(『小説幻妖 壱』所収。もうすぐ『文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁』(ちくま文庫)に入るそうです)。おそらくこの一篇から、私の「鏡花の空間がわからん!」という苦手意識が生まれたと思われる。
 主人公の時松が、町はずれを散策中にふと、寺の黒板塀と崖とに挟まれた細い裏道を見つけて辿っているうちに、崖上に桟敷のように張り出した不思議な建物を見つけるのだが、主人公とその建物との位置関係が、これまたよく判らない。(以下引用、ふりがな・漢字・仮名遣いなど、必ずしも原文どおりではありません)

(略)づツと立樹の梢(うれ)を離れた、遙かな空に、上町の家の二階があって、(略)三階四階と云ふほど高い・・・崖の頂辺(てっぺん)から桟橋の如く、宙へ釣った平家なのである。(略)足代の如く煤びた柱を、すくすくと組んで築上げて、崖からはまるで縁の離れた中途で、其の欄干づきの一座敷を、木の上に支へたが、眞仰向きに成つて見上げるばかり。で、恰(あたか)も橋の杭、また芝居の舞台の習うとか云ふものめく。/芝居と云ふにぞ、桟敷を一間(いっけん)、空に張出した形である。

 もともと主人公は、「崖と板塀とに、袂が擦れすれ」なほど狭まったところ、崖の足もとを歩いているはずであるし、ここの視点ははるか上方に張り出した桟敷状の構築物を、ずいぶん下から真上にほぼ見上げているように思える。ところが、

襖の模様は奥深く、最う夜の色も迫つたらう、遠く且つ暗くて見えぬ。/障子は一枚もなく、明放しで、廻り縁の総欄干。/時(注:主人公、時松のこと)の彳(たたず)んだ処からは、其の横手が見えて、一方は壁の、其の色も真暗で、足代めいた橋柱は固(もと)より、透いて見える舟底の如き天井も、件の縁も、一體に煤け古びて、欄干の小間も其方此方(そちこち)バラバラに抜けて居る。(略)なかなか八畳六畳といふ座敷ではない、一五畳二十畳、まだあらうとも思はれた。

というあたり、「襖の模様」はそもそも下からでは見えるはずもないことをわざわざ断っているようで妙な感じだし、「廻り縁」かどうかはあまり下からでは判りづらそうに思えるが、「舟底の如き天井」が覗けるということはやはりやや下から仰ぎ見ているようであるし、いったいどの視点から見ているのか自信が無くなってくる。しかし続いて、

下から見えるのは、唯其の一室ばかりであった。

とあり、距離は不明にせよ、「下から」見ているのは確からしい。そして

が、ぶらりと歩行いて、其の桟敷の正面へ廻ると、(略)正面の欄干に凭り懸つた、繪の抜出したらしい婦(をんな)がいた。

となって、妖しい女性のかなり細かな描写(着物の縞や、博多帯の織り柄にまで至る)に移っていく。ただし、

あとで心着くと、遠目だのに、−−−−其の半襟の無地だつたのも不思議なほど判然(はつきり)見えた。

というエクスキューズ(?)もある。ひとつ考えられるのは、ここでは崖がかなり緩い勾配になっていて斜め上方に遠ざかって見えている場合である。それなら、真下から見上げているのと違って、桟敷全体が視界に入り、明け放しの部屋を廻り縁が取り巻いている様子やらのパースペクティブが見て取れるのも一応説明が付く。そして、いやに詳細に見えるのはあくまでも怪現象のなせるわざというわけ。しかし、もう少し先へ行くと、

向こうの欄干の角の柱に生えた、やどり木の枝のやうな梢の一処(ひとところ)、特に緑を籠めて暗い中に、風のない日だつたが、ざわざわとそよいで、

樵夫(きこり)が鋸を使う気配がしたと思うと、主人公の衣服の衿や袖に木屑が降ってくるという場面があるので、そうするとやはり彼は桟敷からそれほど水平距離にして距たっていない、真下に近い場所にいるようにも思える。


 以上、だらだらと要領を得ない引用を続けたが、要するに、主人公のいる場所と高桟敷との空間的位置関係が、私には今ひとつよく判らない。もちろんここに描かれているのは一種の異界なのであるし、現実のルールどおりの空間が描写されていなくても構わないのだけれど、そもそも実際に主人公が足を踏み入れた現実の空間の形が頭の中に浮かばないと、起こった出来事のどこが当然で、どこからが異常・怪異のあらわれなのかが曖昧になり、その効果が半減してしまうように思える。いったい、この作品で主人公はどこからどの角度で高桟敷を見ているのか?視点が定まらないように見えるのは、超常現象を描いているからなのか、それとも私の読解力不足・誤読なのか?・・・


 私が、この作品だけでなく一般に地形描写を理解するのが苦手なのは、ひとつには私自身が、のっぺりと平たい郊外の新興住宅地に類する場所で生まれ育ち、かつ旅行や野外活動(笑)にも全く縁のない生活をしているため、起伏に富んだ地形や多彩な表情のある町などに身体的に馴染みがなく、そういう景色を脳裏に描く材料を持ち合わせていないということもあると思う。奥泉光の『葦と百合』の、たしか山奥にあるコミューンを訪ねて渓谷沿いに登っていく場面だったと思うが、言葉で描写されている地形がうまく想像できず辛かったおぼえがある(「切り通し」というのがどういう地形なのかよくわからない)。
 難しい言葉や時代背景など、いまは特にインターネットのおかげで、調べて調べがつく事柄に関してはかなりのことができるようになったと思うが、このような、純粋に自分の理解力・想像力や経験の欠如により読みこなせない要素のせいで、読書して得られるはずの楽しみをかなり失っているのだろうかと思うと、悔しい気分がする。



****(07/04/16補足)****
 コメントいただいたので再び想像してみました・・
screenshot  screenshot
 リンク先画像のような建物を「懸崖造り」というらしいですが、引用されている「崖の頂辺(てっぺん)から桟橋の如く、宙へ釣った平家・・」というのは、もっと細長〜く廊下みたいなのが崖から突き出していて、その先端にこういう感じの座敷が付いているのかな、と思ったりしてます。違うかなぁ・・