空間音痴その1

 人の脳のうち、空間認識を司るのは右脳だと聞く。だとすれば、私の脳をスキャンしてみたらおそらく右半球はスカスカであることが判明するであろう。

 実生活でも方向音痴(ex.地下鉄の階段を上がって地上に出たとたん、どちらがどちらか分からなくなる。一度通った道がなかなか憶えられない)だし、なぜか「東」「西」をよく言い間違えるのも、もしかしたら単なる言い間違いではなくてある種の方向感覚失調なのかもしれない(頭の中では、地図を見て右手が東・左手が西だと知っているし、例えば淀屋橋に梅田を向いて立ったときに、右手が東京方向(笑)だということは全然間違いなく分かる。ただ、それを「西」と口が言い間違えることが時々ある。自分でもフシギでしかたない)。
 そして、方向だけでなく、「2階のこの部屋は、さっき見た1階のどの部屋の真上に相当するか」というような、位置関係の把握も全然ダメである(ついでに言えば、車幅感覚も無いので免許は取ったけど運転は諦めました)。


 さて、全く関係無さそうだけど、泉鏡花
 この人の小説というのを少ししか読んだことはないのだけど、たいてい読むのに難渋しているような気がする。その難しさは「用語が古いから」「文体が凝っているから」というよりも、純粋に「何を表しているのかよくわからない」箇所があるからなのだ。なかでも、動作や物の位置関係が(私にとって)判然としないことがある。先日も話題にした角川文庫の『高野聖』所収、「眉かくしの霊」から1箇所引いてみると:

 そのままじっと覗いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖の傍を、ふわりと巴(ともえ)の提灯が点(つ)いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ、それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡れ縁か、戸口に入りそうだ、と思うまで距(へだ)たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱屋根のつま下をすれずれにだんだん此方へ引き返す、気のせいだか、いつの間にか、中へ入って、土間の暗がりを点(とも)れて来る。・・・橋がかり、一方が洗面所、突き当たりが湯殿・・・ハテナとぎょっとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
 トタンに消えた。−−−−頭からゾッとして、首筋を硬(こわ)く振り向くと、(以下略)

 ここは、語り手が逗留している宿の離れの窓際から、今そこにいた料理人の伊作が(巴の紋が付いた提灯を手に)庭を通っていくと思って見ていたら、それが実は怪異現象だったというくだりなのだが、残念ながらなぜ語り手が「ぎょっとする」ことになるのかよく判らない。
 前半が、遠ざかったと思った提灯が引き返してくる不審な動きなのは何となく納得できるのだが、「提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていること」がなぜゾッとすることなのか。おそらくこの箇所に来るまでに作中で、本館と庭と離れ、廊下と橋がかりと洗面所と湯殿との位置関係がちゃんと頭の中に描かれるように書かれているのだろうけれど、それが私には読みとれていないということらしい。こういうことは、注釈ももちろん教えてくれないし、誰もわざわざ話題にしないので、たぶん今後も私だけがピンと来ないままだろう(まぁここが判らなくても、後の因縁話や女の幽霊の気味悪さを味わうのにそれほど支障はないけれど)。

 (もう少し、続きます)