ことばから考察された大阪人

 尾上圭介『大阪ことば学』(創元社) 読了。

 mihalitaさんが読まれて面白そうだったのでマネシして読みました。ちょっと大阪[弁]びいきが過ぎる気がする箇所もあるけど、目のつけどころが独特で、説明も丁寧な良い本です。以下、ダラダラ長い感想(物好きなかたのみ続きをどうぞ・・)

サービス精神

 大阪人と言葉との関係で基本になっているのは、やはり「サービス精神」だと思う。本書で指摘されているような、「なるべく面白く」「相手により近く」という大阪言葉の方向性も、ここから発している(もちろんそれが鬱陶しかったり迷惑だったりする場合もあるのだが)。第1章の表題になっている《なんなと言わな、おもしろない》はまさに多くの大阪人の心にピッタリくるフレーズだと思う。

含羞と偽悪

 「わかりきったことをもっともらしく言う」「あたり前のことをあたり前に言う」だけでは恥ずかしい。これが過ぎて、ややもすると必要以上に自分を卑下したりガラ悪く表現してみたりする傾向が大阪人にはある。大阪人といえばなにもかも100%本音まるだしと考えるのは間違いで、そこに言うに言われぬ「含羞」があることを喝破した本書はうれしい(私にとって大阪[関西]人の含羞を最も感じさせる人物である野坂昭如の発言が引用されているのも感激)。
 実行しているのは同じようなことでも「ヘヘッ、私らケチですねん」と言ってみせる大阪人。「京都では"しまつ"言います。大阪のケチとは違うんどす。千年の都、京都人の知恵どす」と言いくるむ京都人(言うてなかったらごめんやす)。大阪の偽悪vs京都の矜持、スタイルが違うだけで、どちらもある種の韜晦のうしろにそっと隠れる都会人の身振りであることはなかなか理解されないのかもしれない。「そうか、大阪人はケチだけど京都のは"始末"といって違うものなんですね」と真に受けてしまうイナカモンがいるのは悲しいけど仕方ないとして、そういう勘違いなイナカモン視線を利用して自らのポジションを高める京都人の策の深さには恐れ入るのみです。大阪人もたまには見習うべきかも。
 もちろん、大阪人が「自分をちょっと低く見せる」のは含羞からだけではなく、そうすることで相手の懐に入りこむという計算もある。そうやって口先でうまく話をつなぎつつ、実は相手を観察・値踏みしている場合もあるだろう。商売の町ならではの作法かもしれない。たとえ、ちょっと卑下してみせたことを話のわからんイナカモンにそのまま受け取られてしまってアチャー、ということがあっても、それはそれで「まぁええか」とあまり気にしない(たぶん)。同じ都会人として、出入する素性の知れないヨソ者と絶えず接触せねばならない状況で、どちらかと言えば警戒心と矜持でガードを固める方向へ進んだ京都と、リスクは承知のうえで曲がりなりにも自らを開き相手に近づく方向を採った大阪の差はどこから来るのか興味深い(気候の厳しさ/マイルドさの違いもあるのでは)。話がそれました。

合理性

 《大阪の人が理づめで動く傾向があるということは、よく指摘されるところである。ただ格好がよいから、その方が見映えがよいからそうする、みんながそうするから一体感を維持するためにそうする、ことの勢いで今さら止まらないからやってしまう、というような傾向は、どちらかといえば大阪では低い。》全面的に賛成、とは言いにくいが、最近の実例でこれをよく表したのが、「大阪では振り込め詐欺の被害が少ない」という報道だったと思う。
 例えば東京の人だと、ちょっと変じゃないかと思いつつも「警察です」とか「裁判所です」とか言われるとすぐハハァと恐れ入ってしまうかもしれないが、大阪人は少しでも筋の通らない要求だと見るや「なんでですのん! なんでそんなもん、払わなあきませんの?」とすぐに頭→舌が反応するようにできている。単にお金にシビアだからというわけではないのだが、もちろんお金が関係してくるとなればこの反応は更に苛烈に加速するであろう(笑)。 
 第4章で、大阪弁における《言う》の命令形のヴァリエーションが如何に豊富かを列挙して、《言うとくなはらしまへんか》(言って下さりはしませんか)にまで至る、《恩恵受給の気持ちと尊敬の気持ちとが重なった(...)複雑な行動要求表現》=いわばヤンワリした命令語が、大阪弁にはあり東京語にはないと説明されている。これも著者曰く《言うことは言って対立は避ける》語法だろう。それほどに、大阪人にとっては「言うべきことをキッチリ言う」のが大切なのである。
 どうも昨今、相手の言うことに「いや、それはおかしいんじゃないですか」「それは違うと思いますよ」と当たり前の反論をすることさえ、異分子扱いされたり「キレやすい」人呼ばわりされたりしそうで躊躇してしまう風潮があるようで(そもそも学校がそういう「大勢に異論を唱えない人間」を好んで育てて来たんやないか)、そこにつけ込んだのが「振り込め詐欺」だと私はかねがね考えていたのだが、大阪人の合理性がそんな風潮に対する最後の砦になっているとしたら、じつに喜ばしいことです。

臨機応変

 《あとに客が何人も待っていらいらしているのに、157番の客の孫の話を銀行員がすなおに拝聴している、(...)そのような光景を見ると、大阪の人間は「なにしてんねんな。その場で絵をかかんかいな」と思ってしまう。(...)予定していたのとは違った状況になったり、規則のとおりにやっていたのではうまく行かなくなったとき、大阪では「その場で絵をかけ」ということを言う。状況に応じて新たな対応策をその場で考えろということである。》
 ちょっと話が違うが、T町筋のとある都銀ATMコーナーで見かけた光景。月末で行列が幾重にも続く混雑のなか、リードを付けた小型愛玩犬を連れたまま列に並んだ女性がいた。制服を着た案内係の男性行員が近づいていったので、私はてっきり「お客様、恐れ入りますがペットは・・」などと声を掛けるんだろうと思い込んだ。ところが行員は「お預かりしときましょ」(口調はほとんど「しときまひょ」)と言うなりヒョイと犬を抱き上げ、そのままその女性客としばし歓談。さらに列の中の他の女性客が「可愛いー」と手を伸ばすと「おとなしいでしょ?」とまるで自分の飼い犬を自慢するような口ぶりで小型犬を他のお客さんにも披露していた。もちろん顔見知りのお客だったからかもしれないけれど、ニセ大阪人の私としては、近頃これほど「あぁー、ここは大阪やわ・・」と感じ入ったことはなかった。

助詞抜きの多様性

 ミハリータさんも触れておられる、この著者の論の特色であるらしい「助詞省略」。「仕入れ、ないか」「仕入れないか」「仕入れないか」はそれぞれ違う意味・ニュアンスを担う表現であって、最初の例は決して「あるべき何れかの助詞が欠落している」わけではないという話です。ここらへんの文法的な説明は、私にはちょっと難しかったのだが、第10章に載っている以下の例文を私が使うとしたら、

  • もうあかんうてるのに
  • もうあかんと言うてるのに

は、それぞれ赤文字のところにアクセントを置いてしゃべる(ような状況下で使う=つまり言いたいことが微妙に違う)と思う。文字で見ると判りにくいが、会話の音声を聞けば、どこに重点を置いた発言なのかが良く伝わるはず。
 たしかに助詞抜き表現は、自分でしゃべっていても関西弁らしい口調やなという自覚がある。でも本書にも書いてあるとおり、じっさいには標準語でも他地域でも普通に使われているはずだ。ただ、「ここは書き言葉みたいにきちんと助詞を入れてしゃべるべきだな」と判断されるシチュエーションが、他地域では多めで、関西人にとっては少ないだけなのではないかしらん。

 この「助詞抜き表現」や、「〜しますネン」「〜するガナ」などの独特の語尾の言い回しのおかげもあって、大阪弁には多様な表現が日常のことばの中に生き残っている。想像するに、他地域の方言にも大阪弁と同じくらい、そういう細やかな表現というのはあるはずなのだけど、上に書いたような「ここは標準語でないと失礼だ(or恥ずかしい)」というような判断がだんだん日常すぐそこの会話場面にまで浸透してきてしまい、結果的に、微妙な部分が丸められ痩せたような標準語的ことばに占められる領域が広まっているのだろう。その欠落を補っているのが、嫌われがちな若者ことばなどが持ち込む絶妙(?)なニュアンスなのだとすると、イマドキ語も一概に否定できないなぁと思わせられる。
 とはいえ、ある程度きちんとした場面で一人前の大人として発して何ら恥ずかしくなく、しかもコミュニケーションの細やかさ・厚みを作り出せる言葉は失われて欲しくない。極めてオフィシャルな場面は別としても、方言が当たり前に飛び交う社会でこそ、真に洗練された心の表現や人間関係が生き残っていくのだと信じる。Viva大阪弁(笑)。