入眠時幻覚の波に洗われる岸辺で読んだ話

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(ハヤカワ文庫) 読了。

 いったん読み始めたものの、図書館本を優先するのでどうしても後回しに・・・しかも夜寝る前に読みかけてはそのままウトウトして、また引き返しては読み直し、するうちにただでさえ幻想的な内容がますます夢うつつ半ばするようなありさま。でも、

 《いまおれが話したことは、一語一語が真実だ。》(p.131)
 《しかし、あらかじめ承知しておいてもらえるかな。わたしの言葉以外、この物語には一片の証拠もないことを?》(p.159)

 いま物語るこの言葉の中でだけ存在する真実、語り終えられたとたんに醒めぎわの夢のように溶解していってしまう幻影じみた記憶。そんな内容のこの本を読むのには、かえってふさわしい読み方だったかもしれない。

 いまでは海はほとんど穏やかになり、磨きあげられた緑金とサーモン色の輝きに、この世のものとは思えない藤色と薔薇色が混じっていた。(p.74)
 夕暮れの最後の色彩、この世のものとは思えないグリーンがまじった桃色と薔薇色の夕焼け(p.154)

 移ろいゆく色、ここにとどめることの出来ない束の間の陰翳の中でしか語られ得ない物語。語った本人でさえ、ふと我に返ったかのように物語から立ち去っていってしまう。

 《もしかすると、ぼくはあのすべてを夢でみたんでしょうか?(...)あれだけの体験がぜんぶ作りごと?ぼくはべつの時間にいたんでしょうか?》(p.71-72)
 《それとも、この話ぜんたいが、長年こいつを飲み続けた結果の神経症から生まれたのかもしれない》(p.177)

 舞台となっているキンタナ・ローとは、ユカタン半島東海岸に位置し、マヤ族が住む地域である。

 マヤ族はほとんど“征服されて”おらず、たいていの場合、自分たちをそんな目で見ては居ない。部族が混合し、隷属状態を何度も経験したメキシコ本土のインディオと彼らを比べると、腰が低くて階級意識の強いロンドン市民と、いつまでも古い風習を捨てない高地スコットランド人ぐらいの差がある。(...)キンタナ・ローの海岸には、いま(1984年現在)でも、休戦協定による権利を盾に、同化や近代化を拒んでいる村がいくつも存在する。(p.10-11)

 滅ぼされゆくマヤの民族と歴史を惜しみ、語られないままこの地に眠るであろう無数の物語のことも思わせる一冊。水上スキーで一千年の時の彼方へ疾走していった男の話が、とても気に入った。


 *新刊でもなく中途はんぱな時期に読んだのに、なんという偶然、こちら→[科学に佇む心と身体] - FC2 BLOG パスワード認証で、この本に言及されているのに遭遇。ブログ主の雨崎さんも、マヤに関係のある小説とは知らずに手に取られたとのこと。メル・ギブソンの新作映画『アポカリプト』の偏向ぶりを批判されている一連のエントリーは、たいへん興味深いです。