未だ大きな影の下

 桜井哲夫『戦争の世紀 』(平凡社新書)読了。

 同じ平凡社新書『「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ『占領下パリの思想家たち 収容所と亡命の時代とで、いちおう三部作ぽくなっているらしい。最後のが今年になってから出た時に初めて知りました。

 著者があとがきに書いているとおり、たいていの日本人がそうだと思うが、私も戦争といえばやはり“太平洋戦争”に代表される第二次世界大戦を考えてしまうわけで、第一次世界大戦というのは聞いたことはあっても具体的にそれについて考えるということがほとんど無い。
 むかしフィツジェラルドの『夜はやさし』という小説を読んだ時に、たしか主人公達が大戦の塹壕跡を見にいく場面があり、その時に第一次大戦というものについて「アメリカ人にとっても大変なことだったんだな」とチラっと思ったことはあったものの、改めて何か本を読むとか調べるとかいうこともなくそれきりにしてしまった。だから、

 未だにヨーロッパでは、「大戦(ザ・グレート・ウォー、ラ・グランド・ゲール)」といえば第一次世界大戦のことを指す。(本書p.11)

という感覚は、ちょっと想像するのが難しい。
 しかし本書を読むと、第一次大戦で登場した殺傷力の高い兵器(機関銃、毒ガス、爆撃機や戦車)と、それにより可能となった顔の[見え]ない戦闘、非戦闘員を含む大量殺戮が人々にどのような変化をもたらし、いかに現在のこの世界をかたち作っているかを考えさせられる。
 それは人が初めて経験するたぐいの異様な「死」や「恐怖」であり、そこに居合わせた者たちの間に、「塹壕の友愛」と表現される連帯感を生み出す一方で、上(下)の世代との間に決定的な亀裂と断絶を生じさせた。生々しい戦場での体験、帰還兵たちが味わった孤独と虚脱感は、その後たとえばベトナム戦争帰還兵について語られたさまざまな挿話も連想させ、100年前とは思えない、現在と地続きの出来事として見えてくる。そしてヴィトゲンシュタインハイデガーも、セリーヌブルトンもこの戦争に参加させられてたのだ。

 本書はいわゆる歴史の本ではないのだが、最初の章には開戦までの経緯がまとめられており、誰も予想しなかった速度とスケールで国際社会が一挙に複雑な交戦状態になだれ込んでいくようすが説明される。いったん動き出した開戦への流れを止められないという事態は、今後もいつ起こってもおかしくない気がしてさらに恐ろしい。また、敗戦後のドイツで、精神的にも経済的にも終末的な虚しさと不安に支配された若者達に、「国家と民族のために」というスローガンが浸透しファシズムを準備するに至ったことなども、決して遠い話には思えない。
 それからこれも本書のメインの話題からは外れるけれど、1920年頃は「勤工倹学=学びながら働く」という名目で、多くの中国人青年がフランスに渡っており、その中に周恩来トウ小平もいたという話はちょっと驚いた。