『フランケンシュタイン』の凄さを思い知る

 幸田文『きもの』で年越し・・と書いたのですが、病床のお母さんと主人公がちょっとした口論になる辺りでなぜかとてもつらくなり、読み進めなくなったので中断。かわりにこちら↓を読みました。

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

 余談だけど、表紙の無愛想さとタイトルの素っ気なさで、中公新書は岩波と並んで新書界の両雄かもね。先日書店で見かけた新刊もズバリ『西南戦争』だったし。『戊辰戦争』とか『会津落城』とか(四文字が多い(笑))。じっさいにはその下に副題が付くので少しはアトラクティヴになるのですが、近ごろやたらと多い『○○は△△で××しろ』『○日で××できる◇◇』系のハウツーっぽいタイトルの対極にある感じ。この『批評理論入門』も、副題が無かったら、店頭で手に取る気は起こりそうもない。

 《多様な問題を含んだ小説『フランケンシュタイン』に議論を絞》って、《読み方の実例をとおして、小説とは何かという問題に迫った》というこの本は、「小説技法篇」「批評理論篇」の二部に分かれており、いわば小説を読み解くにあたって「どこを切るか」「何で切るか」を具体的に示したわかりやすい本である。とはいっても、ここで挙げられている読み方の実例が全てすっきりと腑に落ちるわけではなく、特に「脱構築批評」の章なんかは「これが脱構築的な読み方です」と言われても私にはハァ…?としか思えなかったのだが、それは仕方ないとして。
 この書物の本来の目的もさることながら、私には、小説『フランケンシュタイン』というのがいかに驚くべき異様な作品かという事が強く印象付けられた。生命哲学、SF、ホラー、芸術(創造行為)などさまざまな要素を含み、執筆当時のアクチュアルな関心や社会情勢を映しながら、21世紀のただいま現に問われているような問題をも既に示していて、なにか「巨大さ」を感じさせる小説だと思う。
 また、19歳の若さでこの(初めての!)作品を書いたメアリ・シェリーの波乱に富んだ人生、夫パーシーを含め複雑な家族関係と乱倫、相次ぐ死の不吉な影も、まるで「小説みたい」。伝記的事実を「読み」に採り入れるのか否かも批評の方法論として問われるポイントだが、少なくともこのヒトに関しては、伝記的事実を踏まえなくてどうするというぐらい、興味深いものがある。


 ほかに印象に残ったのは、「フェミニズム批評」の項で指摘されている、

 十八世紀から十九世紀にかけては、名だたる作家で出産を経験した女性は、ほとんどいなかった。(略)大方の女性作家は、未婚か、結婚していても子供がいなかった。したがって、出産が文学のテーマとして女性によって描かれることは、まれだったのである。

という件。いわゆる標準的な女性役割からは外れた人が書いているケースが殆どだったなかで、メアリは(当初は不倫関係だったとはいえ)結婚と複数回の出産を経験するそのさなかでこの小説を書き上げた。「まっとうな家庭女性」の生活から文字通り産み出されたのがこのグロテスクな作品だというのが、なんだか皮肉な感じ。
 また、フランケンシュタインというのは人造人間を作りだした科学者の名前なのに、あの恐ろしい怪物のほうを「フランケンシュタイン」と呼んでしまう間違いは時々見かけるのだが、メアリとほぼ同時代の女流作家エリザベス・ギャスケルが自分の小説の中でこれをやらかしており、《教養ある文学者においてさえ、このような混同が生じる場合があった》という指摘も面白い。日本人の耳には、フランケンシュタインという音自体が何か峨々たる物体を思わせ凶々しく響くせいもあると私は思っているのだが、英国人にとってはどうなのか?言い間違いには深層心理が影響しているというフロイト的解釈によれば(笑)…?そもそも怪物に名前が無いからこういう事態になるのだが、「なぜ名前が無いのか」についてもたぶん誰かが論じているんでしょうね。

 そんな調子でなかなか面白く読めたこの本、京都大学総合人間学部での講義をまとめたものだとか。もしかしたら一般教養課程ということ?私も学生時代にこんな親切な内容の授業があったら、もう少し勉強する気が起きたかも(←新春から大嘘で〆)。
 そうそう、amazonの表記とは異なり、著者の姓は正しくは「廣野」です。